シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2019年10月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
2019年10月27日 |
「憐み深い神」加藤豊子牧師 出エジプト記22章20−26節 |
◇ 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。」(20節) 寄留者、寡婦、孤児について記されていますが、これらの人々は、旧約聖書の時代、社会の中で最も弱い立場におかれていたと言えます。彼らを守り、保護する人がいない人々です。神様はイスラエルの民に対して、彼らを保護するように、自分たちもかつてはエジプトで寄留者であったことを忘れてはならないと語られました。 ◇ 申命記の24章19節以下をみると、「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。…」とあります。より具体的に、どのように保護したらよいのかが示されています。26節には「わたしは憐み深いかあらである。」とありますが、この戒めには神様の憐み深さが示されています。 ◇ 「憐み」は英語で「gracious」、その意味は、恵み深い、慈悲深い、恵みあふれる、とあります。神様の憐み深さは、イエス・キリストにおいて表されました。神様はわたしたちを憐み、御子イエス・キリストをこの世に与えてくださいました。そしてキリストは、わたしたちの罪を赦すために、十字架に架かり、救いの道を開いてくださいました。わたしたちは、神様の憐みによって救われたものであります。 ◇ 滅びるしかなかった者を救い出してくださった神様の憐み深さを思うとき、わたしたちもまた日々の生活の中でわたしたちの隣人に対して、神様の憐みを表すものとして生きるようにと、招かれているのではないでしょうか。 |
2019年10月13日 |
「主の戒め」加藤豊子牧師 出エジプト記20章12−21節 |
◇ 「殺してはならない」(13節) 当たり前のこと。この世の中の当然のルールと思われます。しかし、人は何故人を殺してはいけないのか、と問われたとき、明確な答えを示すことができるでしょうか。この問いかけは、神様の前に立たなければ、聖書の言葉によらなければ、真の答を得られないのではないかと思わされます。 ◇ 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(創世記1:27)とあります。神は人間を、神と交わることのできる、特別な存在として造られました。わたしたち一人一人は神の前に、掛けがえのない特別な存在として造られています。命を与えられ生かされている、その神から与えられている命、自分の命も他者の命も神の前に、等しく尊いものであります。 ◇ 数年前、重度障がい者の施設で、ある若者によって次々と入所者の命が奪われるという凄惨な事件が起きました。加害者は、重度の障がい者は生きている意味がない、死んだほうが幸せだなどという理屈を述べていました。人の価値は、doingではなくbeingにある。何ができるか、能力が高いか、どれだけこの世的な生産性があるか、ではなく、神に与えられた命、生かされている存在そのものが尊いことを聖書は示しています。 ◇ 「隣人の家を欲してはならない。」(17節) 口語訳聖書では「隣人の家をむさぼってはならない」とあります。これは「貪欲」隣人のものを自分のものにしようとすることへの戒めです。わたしたちは、与えられているものに満足できず、さらに人のものをも奪おうとする欲深さを抱えています。 わたしたちが心の内側に抱えている闇は深く、他者を傷つけることの多い存在です。主イエス・キリストは、このようなわたしたちの闇を照らす光として、この世に来てくださったことを覚えたいと思います。 |