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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2019年12月29日 
「贖い」加藤誠牧師
出エジプト記32章25−35節



 旧約聖書が語る神の姿は、しばしば私たちの想像を超える。金の子牛を作ったイスラエルの民を神は「滅ぼし尽くす」(32:10)とモーセに言われる。神とモーセの側に立って私たちは自然に出エジプトを読むが、現在の日本の法律に照らし合わせると理解に苦しむ。日本では罪の大きさにもよるが罰として刑務所に入る。そこには教育刑と応報刑の二つの考え方が混在している(と習った)。イスラエルの民は別に人を殺したわけでもなく盗みを働いたわけでもない。金の子牛を作ったことが、神によって皆殺しにされても仕方がない行為だとはキリスト者であっても感覚的には理解しづらいのではないだろうか?



 モーセは自分のもとに集まったレビの子たちに虐殺を命じる。彼らは3千人を殺害する。狂気の沙汰としか思えない人がいたとしても不思議ではない。しかもモーセは「あなたたちは今日、祝福を受ける」(32:29)とまで言う。



 ここで聖書が語るのは罪の重さである。罪の重さを理解しようとはしない人間の姿を聖書は一貫して証する。罪が赦されるためには贖いが必要である。「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしを・・・消し去ってください」(32:32)とモーセは神の前に祈る。ここでモーセは自分の命が贖いになるとは言っていない。むしろいかなるものをもってしても贖いきれない切れない罪をイスラエルは犯したと考える。神の赦ししかあり得ない。それでダメならばイスラエルの民と共に滅びる覚悟を告げる。それが信仰者モーセの在り方であった。
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 2019年12月22日 
「ダビデの町で」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章8−20節



 主イエスの誕生の出来事は新しい出会いを生むことを聖書は伝える。マタイに見る東方の学者たちは星に導かれベツレヘムに行き贈り物をささげ主イエスを拝んだ。この出会いは彼らに「喜び」を与えたことをマタイは伝える。ドイツのケルンにある大聖堂には黄金の棺にこの学者たちの遺骨が安置されている。1800年代に完成したこの教会は巡礼の中心地となり数えきれない出会いを生み出したであろう。



 夜通し野宿しながら羊の世話をしていた羊飼いたちに天使が現われ主イエスの誕生を告げた。天使たちに告げられなければこの羊飼いたちと主イエスの家族の出会いもなかったであろう。彼らは「この幼子について天使が話してくれたことを人々に告げた。」(17節)出会いが出会いを生み出す。



 マンションの商店街の一角に一年ほど前から喫茶店が営業している。マスターは韓国のメソジスト教会から派遣された宣教師である。日曜日は北新宿にある教会で担任教師として働く。神様から宣教のビジョンとして、コーヒーを淹れる事を通して日本人と触れあい福音を伝えるように示されたのだそうである。だからこそであろうかプロとしてのバリスタの訓練を受け、じわじわファン(コーヒーの)を増やしている。実は理事仲間のたまり場になりつつある。



 羊飼いたちは真夜中にも関わらず出かけて行き主イエスを捜しだした。そこに出会いが生まれ、この日の出来事が語り継がれたからこそルカの手によって私たちはクリスマスの出来事に触れることが出来るのである。
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 2019年12月15日 
「イスラエルの牧者」加藤誠牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 マタイがクリスマスの出来事として伝えるのは占星術の学者たちによる礼拝である。「わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです。」と彼らはヘロデ王に来訪の目的を告げる。これはただ事ではない。ヘロデ王にとっては自分の政権を脅かす出来事であり、学者たちにしてみれば彼らの人生をかけた旅であり問いであったろう。



 この学者たちの遺骨がケルンの大聖堂に黄金の棺に収まって安置されている。この大聖堂は完成に600年を要し、黄金の棺の製作にも200年が必要であったと記されている。この大聖堂はカトリックのヨーロッパの巡礼の中心地でもあった。想像を絶する数の巡礼者がこの礼拝堂を訪れ、学者たちと同じように礼拝をささげた。



 「拝む」と同時に学者たちは贈り物をささげた。黄金、乳香、没薬である。高価な贈り物であり、キリストの生涯を暗示するする贈り物であるという説もある。更にはこれらの贈り物は占星術の学者たちに仕事上必要なものであった、という説もある。「拝む」という行為は信じる行為に直結している。学者たちはどのように「幼子」を信じたのであろうか?



 10節には「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とある。一つだけ確かに言えるのは「拝む」ための長い旅路は「喜び」をもたらしたという事である。ささげることは失うことでもある。個人の貴重な財産である黄金、乳香、没薬をその手から失っても彼らの「喜び」は消え去ることはなかったであろう。そして彼らには「別の道」が用意される。イエス・キリストを救い主として信じる者にこの「喜び」と新しい「別の道」が用意されているのではないだろうか。
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 2019年12月8日 
「平和の王」加藤誠牧師
イザヤ書11章1−10節



 「エッサイの株からひとつの芽が萌いでその根からひとつの若枝が育ち」

 イザヤの時代と現在の日本は状況があまり違わないように思える時がある。イザヤの時代、紀元前年8世紀といえば「アッシリア」と世界史の教科書にも記されているように、アッシリアの脅威にさらされ南のエジプトと二つの大国に挟まれて右往左往するのがイスラエルであった。



 先週のCCA(アジアキリスト教協議会)の宣教会議(チェンマイ)に出席したが、政治的には中国と緊張関係にある国からの出席もあり、中国のキリスト教会代表者を加えて、会議にはある種の緊張関係が見え隠れした。日本もアメリカと中国の2大強国に挟まれ、かつてのイスラエルのような苦悩を味わうのかも知れない。



 「株」とは切り株のことである。かつては一本の木であったものが伐り倒され根株だけが残った状態、それが11章のイスラエルの姿である。国としての力を失い、人間的な希望が一切見込めないような時代にイザヤは切り株に生える芽を見る。成長した若枝を見る。主の霊がとどまるところに神のメシアとしての働きを見る。



 「その日が来ればエッサイの根は、すべての民の旗印として立てられ」とイザヤは語る。すべての民の旗印として立てられるべき方がお生まれになった。それがクリスマスである。



 今私たちはアドベントの時を過ごしているが、アドベント直前の聖日を「終末主日」と呼ぶ教会もある。終末を連想させるような暗い時代に聖書は切り株から萌いでる芽を、若枝を指し示す。そこには神の命に満ち溢れた世界が約束されている。その喜びを伝えるクリスマスの時を過ごしたい。
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 2019年12月1日 
「闇を照らす光」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章1−18節



 ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。」という大変印象的な文章で始まります。創世記1章1節の「初めに神は、天地を創造された。」という一文を思い起こします。「初めに」という言葉の意味は根源的に、すべてはここから始まる、というものです。わたしたちが住むこの世界は、なんとなくできあがったというものではなく、そこには神様の存在、確かな神様の意志があることが示されています。



 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。…それは独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(14節)

 マリアを母とし、肉体をとってこの世にお生まれになった神の独り子イエス・キリストご自身が「言」であることが語られています。



 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(5節)

 預言者イザヤは地上を見渡し、「見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放」と叫びました。現代も同じように地を見渡せば、そこに争いは絶えず、戦争によって多くの命が失われ、格差は広がり貧しい者が虐げられているという、暗闇を思わせる世界が広がっています。わたしたち一人一人の人生においても、病や死に対する不安、様々な苦しみが闇として押し迫り、またわたしたちの内側、心の中には憎しみや怒り、自分の力ではどうにもならない闇があることを否定できません。



 しかしイエス・キリストは、その闇の中で輝く光として、人間を照らす光として来られたのだと聖書は語ります。「闇はこれに勝たなかった。」(口語訳)今この世界に、わたしたちの人生に、暗闇という現実があります。たとえものすごい力で闇が迫ってきたとしても、イエス・キリストは闇の中で輝き、闇を打ち払い、わたしたちに命を与えてくださると約束されています。
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