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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年2月 2日 9日 16日 23日 目次に戻る
 2020年2月23日 
降誕節第9主日
「キリストの愛」加藤豊子牧師



 「わたしたちは、神にはありのままに知られています。」(11節)

 「ありのままに」とは、辞書によると、「うそ偽り、ごまかしなどがなく、あるとおりのさまであること」とあります。神様には隠しごとはできないということに、恐れを抱く人もいるかもしれません。しかし、詩編139編には「主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる 座るのも立つのも知り遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」とあります。



 神はわたしたちのすべてを知り尽くしておられ、弱くもろい、欠けの多い土の器であることを知っておられます。そのお方の前で、わたしたちは何も取り繕う必要はなく安らぐことができ、また祈りゆだねることができるということは、幸いなことではないでしょうか。



 パウロは様々な批判にさらされていました。「内面ではなく、外面を誇っている人々」(12節)とは、パウロを攻撃する人々のことを指していると思われます。わたしたちは土の器であり、誇るべきは内に与えられているキリストの恵みなのに、外側の器にすぎない自分自身を誇っている姿が彼らの中に見られました。



 「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」とパウロは語ります。文語訳では「キリストの愛、我らに迫れり」口語訳では「強く迫り」とあります。駆り立てるという言葉は、取り囲む、挟むという意味があります。キリストの愛に迫られ、挟まれて押し出されるようにしてキリストに仕えてきた、そうパウロは語っているのではないでしょうか。自分自身の中には何一つ誇るものはなく、ただ誇るべきはイエス・キリストのみであるということに徹している姿が示されています。
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 2020年2月16日 
「日々新たに」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二4章16−5章10節



 「だから、わたしたちは落胆しません。」とパウロは言います。パウロは失敗しないのでしょうか?すべて思い通りに事が運ぶのでしょうか?彼の宣教旅行は困難だらけです。でも彼は落胆しません。



 教団の世界宣教部は人事を扱います。宣教師を派遣し、派遣する宣教師の3倍の数の宣教師を受け入れています。言葉の壁があり、生活環境の違いがあり、その中で人間関係を構築するのは並大抵のことではありません。「落胆」の材料はあちらこちらに転がっています。パウロは落胆しません。死ぬはずのパウロの肉体にイエスの命が現われることを知っているからです。



 この16節でパウロは「内なる人」「外なる人」という表現をします。「外なる人は衰えていくとしても」とあります。以前の口語訳では「滅びる」となっていました。私たちの肉体は日々滅びに向かっています。それが誰も逆らうことの出来ない現実です。



 カナダのバンクーバーに派遣されている木原葉子宣教師の訃報を金曜日に聞きました。3年前に帰国された時にはすでにガンとの戦いは始まっていました。実際の牧会からは一歩退きながら、何が出来るかの相談を受けました。青年のキャンプを行いました。教団内外から10名の青年が参加し、2年目になる昨年は体力が落ちて7名を受け入れるのがやっとでした。今年になりお見舞いに行けないまま訃報を聞きました。彼女と私たちは限られた時間の中で種を蒔きました。蒔かれた種が主にあって成長する希望を共に与えられています。



 「内なる人」であっても朽ちることがあるかも知れません。しかし「あなたがたの内には命が働いている」とパウロはいいます。主イエスの命に繋がる私たちの「内なる人」は日々新たにされていきます。
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 2020年2月9日 
「土の器に」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙二4章1−15節



 「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。」(3節)

 「福音」とは「良き知らせ」、すなわちイエス・キリストこそ真の救い主であるという良い知らせのことです。この「福音」は、すべての人のためのものであり、例外なく皆、この救いに招かれています。しかし、この「福音」に覆いがかかっている、と語られています。何が、「福音」を覆ってしまっているのか。パウロは「この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、…福音の光が見えないようにしたのです。」(4節)と言います。



 「福音」の覆いとなる「この世の神」とは何でしょうか。神と人間との関係を妨げようとする働きであり、また偶像ともいうことができるでしょう。偶像とは、人間の手で刻まれた石や木でできた像のことだけではありません。お金や地位、名誉。あらゆる物や人も、それを頼りにしすぎるならば、イエス・キリストという光を見えにくくする偶像となり得ます。わたしは自分だけが頼り、何ものにも頼るつもりはないとするならば、自分自身が覆いとなってしまうのではないでしょうか。



 「ところでわたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」(7節)「宝」とは、福音、イエス・キリストご自身のことであり「土の器」とは、わたしたち人間、もろくて壊れやすい、はかない存在であるわたしたち自身のことを表しています。金や銀でできているようなりっぱなものではない、土の器であるわたしたちに、イエス・キリストの光が宿っていると語られています。わたしたち一人一人もイエス・キリストの光を輝かせるようにと宝を託されているのです。
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