シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2020年3月 | 1日 | 8日 | 15日 | 22日 | 29日 | 目次に戻る |
2020年3月29日 |
「神の恵み」加藤誠牧師 コリントの信徒への手紙二8章1−7節 |
◇ 「彼らは、苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(2節) 聖書の中にはしばしば、逆転劇とも呼べる内容が語られている。「貧しさ」と「豊かさ」というのは、正反対の言葉です。マケドニアの教会は、貧しさの中にある教会だった。しかし、その極度の貧しさの中にある教会がエルサレムの教会を支えたのだということが語られている。 ◇ 全国の諸教会も大変厳しい財政状況である。しかしそのような中で、昨年の台風の被害のときには多くの献金が献げられた。本当に困難な中にある方々のためにと、地方の経済的に厳しい教会からも献げられた。パウロの思いをしっかり汲んでいる教会があるのだと思わされる。 ◇ 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(9節) イエス・キリストは豊かであったのに、人となられ十字架に架かりわたしたちの救いのために犠牲となられた。すべてのものをもっておられたのにすべてのものを手離してくださった、だからあなた方は豊かになったのだ、とパウロは語る。わたしたちがどんなに極度の貧しさの中、困難の中にあろうとも、イエス・キリストにあって豊かなものなのだということがパウロの主張である。そしてコリントの教会の人々に対し、その愛の純粋さの故にその豊かさをぜひ用いて欲しいと願っている。それは今を生きるわたしたちにも示されているキリスト者としての生き方ではないだろうか。 |
2020年3月22日 |
「悲しみから救いへ」加藤豊子牧師 コリントの信徒への手紙二7章5節−13節a |
◇ 「わたしたちの身には全く安らぎがなくことごとく苦しんでいました。」(5節)とパウロは自分の状況を振り返っています。恐れとは無縁の、強いイメージを抱かせるパウロですが「外には戦い、内には恐れがあったのです。」とも告白しています。パウロも自分自身の内側に様々な不安を抱え、動揺していたのがわかります。 ◇ 「あの手紙によってあなた方を悲しませたとしても、わたしは後悔しません…」(8節) 2000年も前のコリントの教会の中で、どんな問題が起こったのか、詳しいことはわかりません。ただ「例の事件」と呼ばれるような出来事が起こり、パウロはそのために「涙の手紙」とも呼ばれる手紙を書いたことがわかっています。その手紙の内容は大変厳しいものであり、コリントの教会の人々を非常に悲しませたわけですが、書いたパウロ自身も後に、厳しく書きすぎたのではないかと後悔し、心配したのだと思われます。 ◇ 「神の御心にかなった悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(10節) 「後悔」と「悔い改め」は違います。「後悔」は今さらどうにもならないこと、変えられないものですが、「悔い改め」(メタノイア)は方向転換、向きを変えることです。コリントの教会の人々はただ悲しんだのではなく、悔い改めに導かれました。自らの罪を見つめているだけでは向きを変えることはできません。十字架を通して救いを成し遂げてくださった主イエスを信じ仰ぐようにと招かれています。 |
2020年3月15日 |
「生ける神の神殿」加藤誠牧師 コリントの信徒への手紙二6章14節−7章1節 |
◇ 「わたしたちは生ける神の神殿なのです」とパウロは言う。(6:16) 驚くべき言葉である。神殿とは神が住むべき場所である。聖なる場所である。それがわたしたちであるはずがない。これがわたしたちの常識であり、理性が納得する事柄である。なぜならわたしたちが罪深いことは私たち自身が良く知っている。しかしいくら私たちが否定しようとも聖書は「わたしたちは生ける神の神殿なのです」と語りかける。 ◇ 「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と主イエスは言われた。聖書は自分を愛することを否定しない。しかし自分を愛するとは自己中心的な生き方をすることではない。私たちは「自己中」な人を好きではないし、自分が「自己中」な人間だと人に見られたくはないはずである。わたしたちが生ける神の神殿である、ということは新約聖書的に言えば「キリストがわたしたちの心の中に住んでくださる」ということであろう。これまた驚くべき事柄である。何故なら私たちの意識はわたしたちの物であるし、私たちは徹頭徹尾自己判断で物事の責任を取る。しかし聖書はそのような私たちの内にキリストが住んでくださると言う。 ◇ パウロは7章1節で「愛する人たち・・・神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」と勧める。キリスト者は神を畏れる存在である。神を畏れる生き方とはキリストを愛する生き方の他ならない。私の内に住んでくださるイエス・キリストを愛する生き方こそパウロがコリント教会の人たちに願う生き方である。そしてそれは現代に生きる私たちにパウロが訴えかける生き方である。 |
2020年3月8日 |
「恵みの時」加藤豊子牧師 コリントの信徒への手紙二6章1−13節 |
◇ 「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2節) 「恵み」と言う言葉は、教会の中でよく聞かれる言葉です。聖書の中にも160回以上出てきます。世の中一般でもよく使われる言葉であり「大地の恵み」「恵みの雨」とあるように、「ありがたいもの」というような意味合いで受け取られるのではないでしょうか。 ◇ 1節に「神からいただいた恵み」とありますが、わたしたちにとって「恵み」とは、神からいただくものであります。イエス・キリストによる救い、十字架を通して与えられる罪の赦し、そこに表された神の愛、それらの恵みはお金を出して買えるものではなく、人間の善い行いや努力の積み重ねで得られるものではありません。 ◇ 「時」(カイロス)とは、神様が関わられる、特別な時を意味しています。「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、神の救いのご計画の中で、神の時が満ち、救い主イエス・キリストがこの世に与えられました。過去の出来事ではなく、今現在わたしたちはその恵みに生かされ救いを与えられています。 ◇ 「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも…」(8節) ある時は褒められ、ある時はけなされ…パウロほど激しくその両方の評価を受けた人はいないのではないかと思わされます。パウロは、人からどのような評価を受けようとも、左右の手に義の武器を持ち、神に仕える者としてその実を示していると語ります。内外からの激しい迫害を受ける中、神との正しい関係を保つことが、パウロの手にする武器であったことを覚えたいとた思います。 |
2020年3月1日 |
「キリストに結ばれて」加藤誠牧師 コリントの信徒への手紙二5章16−21節 |
◇ 今日の箇所には気になる部分がある。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(20節)である。これはコリントの教会の人々に向けてのメッセージである。パウロの目から見れば、彼らはキリスト者であったが、神との和解が必要な状態であった。キリスト者になる、つまりイエス・キリストを信じることにより神と和解することが救いである。しかし、キリスト者も罪を犯す。悔い改めを忘れたキリスト者に対して、パウロは和解の使者となるために、神と和解するよう勧めている。 ◇ 一月ほど前に来訪者があった。連絡もなしで突然教会を、しかも教職の立場にある人が訪ねてきた。少々非常識である。話を聞くと正直に韓国では異端と疑われることもあると話された。確かに主イエスの十字架は私たちの全ての罪を神の前に赦す。しかしだからと言って何をしても良い訳ではないし、真摯な悔い改めは必要である。パウロの時代から教会には誤った教えがあった。パウロが去った後、コリントの教会は不健全な教えに毒されてしまった。 ◇ パウロによればコリントの教会員も私たちも、神から「和解のために奉仕する任務を」授けられた存在である。教会の存在意義はそこにしかない。教育や人権に関わることもあり得る。社会福祉も大切な証の業である。しかし教会がこの「和解の任務」を忘れる時、教会はその存在意義を失う。礼拝も同様であろう。礼拝の最初は招詞である。神の招きによって礼拝は始まる。人の習慣や決め事ではない。神の招きがなければ礼拝足り得ない。コロナウイルス恐怖症が蔓延する現在であるが、適切な対応を取りつつも礼拝がどこから始まるのかを忘れないようにしたい。 |