←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年4月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2020年4月26日 
「パウロの誇り」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二10章1−11節



 今朝の聖書の前半部分には「肉」という言葉が4回使われています。印象に残るのは「肉に従って歩んでいる」(2節)「肉において歩んでいます」(3節)という使い方です。言い換えると私たちは「(限界のある)肉体を持っていますが罪や肉欲に支配されて生きている訳ではありません。」とパウロは言いたいのではないだろうか?



 礼拝を休止して3週目に入る。神学校で教会とは「エクレシア」「呼び出されたもの」と習った。教会は本質的には建物ではない。礼拝するために神に招かれたものたちの集合体である。教会にとって(特にプロテスタントにとって)人が集まって礼拝する事が重要である。しかし現在その集まりが分断されている。勿論いつかは回復するであろうが、教会の本質を考えさせられる。



 もう一つ、教会の本質は「声」である。カトリックからプロテスタントが分かれた500年前から説教が重視されるようになった。人の声を通して神の言葉を届けるのである。



 パウロは4節で「神に由来する力」に言及する。この力は要塞(複数)も破壊するに足ると語る。私たちの周辺には「肉」に由来する様々な要塞がある。この要塞は神の栄光を求めず、人の栄光を求める。私たちキリスト者も神の栄光よりも甘美な人の栄光を求める傾向があるかも知れない。



 教団に出勤するためバスに乗ったが、全員がマスク着用であった。当然の事ではあるが、ふと会話が禁じられているかのような錯覚に陥った。今は聴くときなのかも知れない。このような時でも教会は神の言葉を人の耳と心に届けたいものである。
目次に戻るページトップ
 2020年4月19日 
「惜しまず豊かに蒔く人」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二9章1−15節



 8章9章はエルサレム教会に対する献金のことが話題になっています。アカイア州とかマケドニア州とあるのはギリシャの南と北の州のことです。ここで示されているのは州を越えて国を超えて教会が教会を想う心です。それは教会という建物ではなく別々の場所に住み、恐らく顔を合わせたこともないクリスチャンたちを思いやる心です。



 世界宣教の仕事をしている関係で、派遣宣教師から世界各国の情報が入ってきます。先週はルーマニアに住む宣教師から、コロナウイルスの深刻な影響が教会の牧師や信徒出ており、都市機能がマヒした状態が一月続いているそうである。日本でも世界でも起こっていることはウイルスによる人と人との分断である。単純に接触する機会が少なくなるという事を超えて、ストレスのせいであろうか教会関係者の間でも人を非難する過激な言葉を目にするようになってきたのは残念である。



 この9章ではエルサレム教会に対する献金を「贈り物」(5節)と表現するが、これは本来「祝福」と訳されるべき言葉の意訳である。だからこそ「惜しまず豊かに」とか「喜んで与える」という言葉が出て来る。つまり神が私たちの主イエスを通して惜しみなく「祝福」を与えて下さるので私たちも心を込めて「贈り物」を届けるのである。そこには神様の「祝福」を届けたいとの切なる思いがある。



 今こそ教会が「祝福」を届ける時であろう。人と人との距離が半ば強制的に離され、人々の心にストレスと痛みが忍び込むときに、私たちは様々な形で神の「祝福」を届けることに思いをめぐらさなければならないと思う。
目次に戻るページトップ
 2020年4月12日 
「心は燃えていた」加藤誠牧師
ルカによる福音書24章28節−35節



 大学一年の時に英語のスピーチを習いました。手始めはJ・F・ケネディーの大統領就任演説を覚えてまねる事でした。その最初のフレーズは「We observe today not a victory of party」です。このobserveという単語の意味が長い間しっくりきませんでした。英文の教団ニュースレターに関わるようになって、このobserveには「祝う」という意味があることを知りました。日本語では礼拝を「守る」という表現がよく用いられますが英語では「参加する」「祝う」という表現がぴったりきます。本来礼拝は守るべきものというよりは、祝うべきものなのではないでしょうか?



 エマオに向かっていた弟子たちに復活された主イエスが近づき一緒に歩き始められます。しかし彼らの目は「遮られて」いました。宿に入り夕食時に主イエスの賛美の祈りを聞き、パンが裂かれた時に彼らの目が開けました。聖書は不思議な表現を続けます。「イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」(31節)姿は見えていても主イエスだとは分からず、認識すると同時に姿が見えなくなる。彼らはエルサレムに戻る決心をします。主イエスが共に歩んでいた時に、聖書の話を聞いた時に「心が燃えた」経験を共有していたからです。



 しばらく、私たちは通常の礼拝をささげることが出来ません。しかし主にある希望をもって、主の復活をお祝いするために再び集まる日が近いことを覚えつつ、今週も主と共に歩みたく願います。
目次に戻るページトップ