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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2020年5月31日 
「愛と平和の神」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二13章8−13節



 コリントの信徒への手紙二からの説教は今週で終わります。最後のまとめが「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同にあるように。」(13節)という礼拝の祝祷の言葉です。13章に前半までパウロはかなり強い口調でコリントの信徒たちに語りかけます。「今度そちらに行ったら、容赦しません。」(2節)の言葉などはまるでケンカ口調です。



 パウロの本意は10節にあるように「壊すためではなく造り上げるため」です。一人一人の内にイエス・キリストがおられることを理解し、コリントの信者たちが主の名に相応しい教会を建て上げるのを手伝うためです。「主イエス・キリストの恵み」「神の愛」「聖霊の交わり」は全てのキリスト者にとってなくてならぬものです。



 不思議なことにパウロは弱さの中に「キリストの恵み」を見出しました。人は皆弱さを抱えて生きています。人生の最後は弱さの極致であろう「死」を迎えなくてはなりません。私たちにはその中で「キリストの恵み」を見出す約束が与えられています。「キリストの恵み」があるからこそ、私たちは「神の愛」を信じて生きてゆく事ができます。それは同時に神の愛に生かされることでもあります。そして忘れてならないのは私たちには「聖霊の交わり」が祈られていることです。神の愛は「交わり」を求める愛です。



 およそ2ヶ月の間、私たちは教会に集まることを休止しました。しかし教会は「交わり」があってこそ教会です。御言葉を共有する交わり。祈る交わりに加えて再び新しく共に集い礼拝する交わりの共同体としてのシロアム教会の歩みが始まります。
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 2020年5月24日 
「弱さを誇る」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二12章1−10節



 この章の前半は恐らくパウロが経験したであろう特別な経験が記されている。「体のままか、体を離れてかは」という表現が2度続いている。パウロにとっても理解不可能な、しかし彼にはリアルな特別な経験を語ります。パウロはコリントの人たちが彼の経験を理解するとは思っていません。彼だけの特別な経験だからです。前章ではパウロは自分が経験した「死ぬような目」について具体的に語っています。ひょっとすると身も心も打ち砕かれるような経験の連続だったパウロに対する神様の勇気づけだったのかも知れません。



 7節からはパウロに与えられた「とげ」について語られます。「身に与えられた」とありますから、普通に考えれば痛みを伴う病気です。「痛めつけるために」、そして「三度主に願いました」という表現からすると相当パウロを悩ましたようです。



 パウロは彼の聞かれない祈りを通して神の言葉を聞きました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」との言葉です。考えてみればこれは異常な体験です。これほど鮮やかに主の言葉を聞く人を私は知りません。



 教会は、特に日本の社会では弱い存在です。宗教的にはマイノリティーですし、従って政治的な発言権も弱いです。壮麗な建築もなく、一番大きな日本基督教団でも経済的な苦境に立たされています。しかしこのコロナ禍の中、不思議に教会は強いのです。具体的には信徒の方々が愛の献金をもって教会を支えています。弱さの中にこそ教会は不思議に強いのです。キリストの愛に支えられて。
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 2020年5月17日 
「キリストに仕える者」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二11章23−29節



 パウロは11章の16節から不本意ながら自らの伝道の苦労話をする。「主の御心に従ってではなく」(17節)という表現に、彼の苦衷が察せられる。23節から具体的な経験になるが、目を引くのは「ずっと多く」「ずっと多く」「比較できないほど多く」という23節の表現である。パウロはここでコリントの教会を惑わしている偽使徒たちに比べて、苦労、投獄、鞭打ちが比較にならないほど多いと述べています。更には「死ぬような目に遭ったことも度々でした」とまで語ります。



 偽使徒と使徒の違いは明らかです。彼らは上手に投獄や鞭打ちを避けたのではないでしょうか?パウロは教科書のない時代に生きています。私たちは神学校で2000年の教会の歴史に触れ、体系的にまとめられた神学書を読み、更には教会論や伝道論を学ぶことが出来ます。つまり先人の知恵や失敗に学ぶことができます。パウロはガマリエル門下生でしたから莫大なユダヤ教(旧約聖書)の知識は得ていたと思います。しかしキリスト者としてどう生きるか?使徒としてどう伝道するかについては、彼は多少は先輩使徒から学んだにしても、ほとんどは彼自ら開拓したはずです。



 彼がこの11章後半で述べているのは、彼の愚直さです。愚直にイエスがキリストであることを宣べ伝えた結果、それが投獄であろうが、鞭打ちであろうが、難船であろうが、盗賊に遭おうが、パウロはまっすぐに逃げずに歩んだ、ということです。肉体的な困難だけでなく「あらゆる教会についての心配事」もありました。彼は自分の弱さを抱えながら、愚直に心砕きながら歩もうとしています。このパウロの愚直さには教えられます。
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 2020年5月10日 
「キリストの真実」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二11章7−15節



 「わたしの内にあるキリストの真実にかけて」とパウロは言う。完ぺきな人はいない。パウロの行動を批判する人は、巧みにコリントの教会に取り入ったのかも知れない。教団本部の会計はすべて透明である。委員会費用や私の出張費も詳細な報告書の提出が義務付けられている。献金を用いているのであるから当然である。パウロの時代の教会会計の仕組みはどうだったのだろうか?今日のように会計報告が詳細になされていたとは考えにくい。パウロの敵対者たちは彼の不利益になるような「噂」を流していたことが窺える。



 パウロは彼らの事を神に委ねる。パウロの内にある「キリストの真実」にかけて彼は自分の信じる道を行く。



 先日、イタリアに関して二つのニュースを耳にした。ヨーロッパの中でもコロナ禍による死者はイギリスと並んで多い。ローマ教皇は病院に収容され、家族とも面会できずに不安な日々を過ごす患者たちに奉仕に行く神父たちを励ましたそうである。その結果数十人の神父がコロナで亡くなった。無神論者には理解不可能な行動かも知れない。



 イタリアのベルガモは観光地で有名であるが、今や一日の死者数が800人を超えたことが有名になってしまった。現地の作曲家が「RINASCERO」という曲を作りその著作権をベルガモの病院に寄付をしたそうである。YOUTUBEで聞くのは無料だが広告料が病院に入る仕組みである。RINASCEROとは復活という意味である。医療従事者を励ます曲であるが、コロナに苦しむ患者に寄り添い命を落とした数十人の神父の行動がこの曲に影響を与えたのではないかとふと思う
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 2020年5月3日 
「異なったイエス?」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙二11章1−6節



 キリスト教の歴史は異端との戦いの歴史でもあったと言える。しかも過去形ではなく現在進行形であり、今日世界のあちらこちらに「怪しい」教会が存在する。カルトの問題は教会外部の人には(内部の人にとっても)分かりにくく、裁判沙汰になることがあっても教会内の内紛と捉えられがちである。最もカルトは人権侵害を引き起こすことが多いのであるが、そこも私の過ごした聖書学校などは「訓練」と人権侵害の境目があいまいな部分があったように思える。



 パウロが去った後のコリントの教会の最大の問題は、「違った福音」が大使徒と自ら称する人たちによって語られ、その影響を信徒が受けていることでした。ここでパウロの語る異端とは「キリストに対する真心と純潔」とから人をそらす教えです。「大使徒」と呼ばれている人の具体名は分かりませんが、彼はその称号を恐らく気に入っているのでしょう。人から賞賛されることが彼の喜びだったのかも知れません。しかしそれがキリストへの愛から人をそらすものであれば、パウロは断固として戦うのです。



 コロナ禍によって今まで以上に礼拝をパソコンやスマホで流して共有する教会が多くなりました。私はフェイスブックを利用していますし、世界宣教委員会もフェイスブックのページを持っています。便利なツールですが、各個教会のインターネットを使用する礼拝のお誘いを見たり、毎日個人的な事を発信する牧師を見たりすると、自己顕示欲の強さを感じることがあります。「キリストに対する真心」を見失わない教会生活を送りたいものです。
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