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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年7月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2020年7月26日 
「主イエスの祈り」加藤豊子牧師
マルコによる福音書1章35−39節



 「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」(35節)

 主イエスが朝早く、一人静かな所に行かれ祈られた、とあります。その前日は安息日でした。主イエスは会堂でお話しをされ、その後シモンの家に行き、そこで熱を出して寝込んでいたシモンのしゅうとめの手を取り起こして下さいました。そして夕方になると、病人や助けを求める人々など、町中の人が戸口に集まったとあります。おそらく前の日の夜遅くまで、大勢の人々に対応され、休む間もないような働きをされました。どんなに疲れておられたことだろうと思わされます。しかし、その翌日朝早く、主イエスは祈りのために一人出かけられたのです。祈りの姿は、新約聖書の他の箇所にも記されています。主イエスの宣教と力ある業を支えていたのは、一人静かにささげる祈りでした。



 主イエスは十字架に架かられる前、「御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と願い、さらに「しかしわたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。主イエスにとって祈りとは、ただ自分の願いを訴えることではなく、神様との深い交わりのときであったことを思わされます。そこには神への深い信頼と従う心があり、御声を聞き、みこころを求める、そのような神との交わりのときがありました。



 「みんなが捜しています」とあるように、カファルナウムの人々は、主イエスがずっと自分たちの所に留まって、病をいやし助けてくれることを願いました。そこには、自分に都合よく願いを叶えてくれる神を求める人間の姿というものが現されているように思えます。人々の思いが押し寄せてくる中、尚さらに主イエスは一人静かに祈るときを必要とされたのではないでしょうか。
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 2020年7月19日 
「主イエスのいやし」加藤誠牧師
マルコによる福音書1章29節−34節



 会堂での出来事を見て、人々は主イエスにシモンのしゅうとめのいやしを願い出る。「早速」という言葉から会堂に集まった人たちがいかにシモンの家族のことを気にしていたかがうかがえる。会堂からシモンの家までどのくらいの距離だったのだろう?



 数年前旧東ドイツに属していた町々、村々を南から北に車で移動した。印象的だったのは各村の中心に教会があり、そこから放射線状に道が延びていたことである。どこも20人収容するのがやっとなような可愛らしい教会であったが、コミュニティーの中心が教会であることを今も示している。



 会堂もガリラヤ湖畔に住む人たちのコミュニティーの中心であった。主イエスはシモンのしゅうとめのそばに行き、手を取って彼女の身を起こす。マルコは会堂の時のように主イエスの言葉を残さない。ここでの主イエスは無言である。しかし即座にいやされたしゅうとめは一同をもてなす。



 この描写は興味深い。安息日は金曜日の夕方から土曜日の夕方までである。その間は「仕事」をしてはいけない。次の32節で「夕方になって日が沈むと人々は」町中の病人を恐らくシモンの家に連れてくる。安息日が明けたので大っぴらに移動できるのである。「しゅうとめ」は恐らく安息日中に一同をもてなす。具体的な内容は記されていないが、一同のために働いたのである。



 そして主イエスは彼女の奉仕を感謝して受け取られたのだと思う。町中の人たちが病人を連れてくる。恐らく主イエスは無報酬で彼らを親身になっていやしたことであろう。人を偏り見ることなく、手を取りその身を起こし支えつつ一人一人に主の愛と癒しが注がれた。その姿を4人の弟子たちは間近に見て主の宣教に召されてゆくのである。
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 2020年7月12日 
「主イエスの権威」加藤豊子牧師
マルコによる福音書1章21−28節



 主イエスと弟子たちは、カファルナウムという、ガリラヤ湖近くの町に到着しました。そして安息日に会堂に入り、教え始められたとあります。当時ユダヤの人々は、安息日にはシナゴーグと呼ばれる会堂に集まり、礼拝をささげていました。その礼拝で、主イエスはお話をされたわけです。



 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(22節)

 律法学者は旧約聖書の専門家であり、いつも礼拝の中で聖書の解説をし、人々を教え導く役割を担っていたと思われます。そういう意味では、律法学者たちも聖書に関して「権威ある者」と言えるのではないでしょうか。



 世の中には様々な「権威」というものがあります。一国の王としての権威、様々な組織や団体のトップの人が持つ権威。そしてこの世の権威は時に権力と結びつき、自分たちの都合の良いように他者を支配することになりかねません。そのような権威は、人から与えられたり認められたりして成り立っているものです。しかし、主イエス・キリストのもっておられる権威は、そのような人間が手にしているものとは全く違うものであり、神の子としての権威、神から与えられたものであります。人々が非常に驚いたとあるように、主イエスの言葉、存在には神の力が満ちていたのです。



 「この人から出ていけ」と汚れた霊に命じることができるお方は、罪と死の力に勝ってくださるお方であります。今わたしたちはコロナの感染拡大という思いもかけない事態に直面し、不安で心揺さぶられるような思いになります。しかし、神の子イエス・キリストが、そのようなわたしたちと共に歩んでくださることを覚えたいと思います。
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 2020年7月5日 
「弟子にする」加藤誠牧師
マルコによる福音書1章16−20節



 マルコだけ読むとあたかもシモンつまりペトロとアンデレは主イエスに出会ったとたんに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声を掛けられ、彼らは即座に仕事を捨て主イエスに従っていったように読める。マタイやルカの助けを得て、私たちは主イエスとペトロとアンデレには人格的な交わりがあったことを知る。そうでなければマルコのこの記事はオカルトである。そして聖書の奇跡は決してオカルトの類ではない。



  シモンとアンデレの出来事の後にマルコはゼベダイの子ヤコブとヨハネも主イエスの招きに従って「イエスの後について行った」ことを記す。マルコがここで語りたいのは弟子になるとは「イエスの後について行く」事に他ならないという事である。



 この4人はガリラヤ湖の漁師だったこともあり「人間をとる漁師にしよう」と声を掛けられ、主イエスと共に直接伝道をするために召された。しかし当然の事であるが全てのキリスト者が牧師に召されている訳ではない。しかし全てのキリスト者は「弟子」に召されている。



 丁度1年前であるが私は英国メソジスト教会の総会に海外ゲストとして参加した。日本基督教団は議長、副議長、書記は教職つまり牧師が務める。しかし英国メソジストでは議長は教職であるが副議長は信徒から選ばれることが規則で定められている。弟子に教職も信徒も関係ないのである。弟子に求められることはただ一つ。「主イエスの後について行く」ことだけである。
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