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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年8月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2020年8月30日 
「安息日の主」加藤豊子牧師
マルコによる福音書2章23−28節



 「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」(23節)通りがかりに他人の畑の麦の穂を摘んで食べるという行為は、実はその当時許されていることでした。貧しい人を助けるために、昔からあるユダヤの約束事でした。ファリサイ派の人々が問題にしたのは、その行為が「安息日」に行われたということでした。



 主イエスの時代、ユダヤの人々は安息日に関しては大変細かな規則を多数作ってそれを厳守していました。その規則によると、麦の穂を摘むという行為は収穫という労働にあたります。働くことが禁じられている安息日にそれを行ったということで、非難されているわけです。



 細かな規則にとらわれて、本質を見失っているファリサイ派の人々に対し、主イエスは旧約聖書に記されているダビデの話をしました。ダビデがまだ王になる前のこと、サウル王に命を狙われて逃げていた時のことです。ダビデが「何かパン5個でもありませんか」と祭司に求めたところ、祭司は聖別されたパン、供えのパンをダビデたちに渡したことが記されています。律法では祭司しか食べることが許されていないパンを食べて、ダビデたちは生かされたのです。



 「安息日は、人のために定められた。」(27節)

 神は人のために、私たちのために、安息日を定めてくださった、とあります。人を生かすために、安息日は与えられているのです。私たちは立ち止まることが下手なのではないでしょうか。放っておくと、自分の思いのままに働き続け、歩き続けてしまいます。安息日はそうした日々の中で、立ち止まって神の言葉に聴き、神の前に思いを巡らす幸いなときとして与えられていることを覚えたいと思います。
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 2020年8月16日 
「招かれているのは誰」加藤誠牧師
マルコによる福音書2章13−17節



 例によって聖書は人生の一大転機を迎えたレビの心の声や動きを全く私たちに伝えない。しかもこのレビはマタイによる福音書では「マタイ」そして12使徒になったと仮定すれば同じマルコの3章ではヤコブかタダイであろう。どうも人物特定ができない。



 「徴税人」がどのように町の人たちに思われていたかは、もう一人の有名な徴税人ザアカイ(ルカ福音書)の話から明らかである。徴税人はローマ帝国のために税を徴収する。規定の額さえ納めれば、いくら徴収しようが余剰分は徴税人の収入になるシステムだったので、同じユダヤ人にしてみれば裏切り者同然であった。マルコ2章15、16節では連続で「徴税人や罪人」という表現がワンセットで出ているのはそのためである。



 ザアカイが主イエスに会うため積極的に行動したのとは反対に、レビは「収税所に座っている」と表現される。少なくとも主イエスの話を聞くために集まっていた群衆のなかにレビはいなさそうである。何故主イエスが仕事中のレビに「わたしに従いなさい」と声を掛けられたのかは不明である。聖書が伝えるレビの行動は単純に「座っている」から「立ち上がってイエスに従った」である。座っている人間から立ち上がって従うレビになったとマルコは伝える。



 「立ち上がった」レビは続く15節では主イエスを自宅の食事に招く。主イエスと弟子たちだけでなく食事の場には「多くの徴税人や罪人も」同席していた。レビがしたことは、主イエスと食事を共にし、その場に友人を招き、主イエスの言葉を聞く機会を提供した事である。そしてこのレビの行動は、今日の教会にも形を変えて求められていることであろう。
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 2020年8月9日 
「信仰を見て」加藤豊子牧師
マルコによる福音書2章1−12節



 「4人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れていくことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」(3.4節)

 再び訪れたカファルナウムの町での出来事です。前にも増して、主イエスのもとには、うわさを聞き付けた多くの人々が押し寄せてきたことと思われます。4人の男が友人なのか家族なのかわかりません。ともかく主イエスに治してもらいたい一心でこの中風の人を運んできました。人が多すぎて近づけないので、屋根をはがして穴をあけ、病人を床ごとつり降ろしたと、大胆な、非常識とも思える行動が記されています、彼らの思いに応えて主イエスが言われた言葉は「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)というものでした。



 この言葉は、中風の人、4人の男たち、そしてその場にいた人々にとって「え?」と思うような期待外れの言葉だったのではないでしょうか。何故なら、彼らがひたすら願っていたのはその病が治ることだったからです。最後まで読めばわかることですが、結果的に主イエスはこの人を立ち上がらせてくださいました。起き上って歩いて帰ることができたとあります。しかし、主イエスがそれよりも前に、先ずこの人に伝えたのは「あなたの罪は赦される」ということだったのです。



 マルコによる福音書は「神の子、イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まります。今日のみ言葉が大切なこととして私たちに伝えているのは、主イエス・キリストが「あなたの罪は赦される」と罪の赦しの宣言をすることができる権威、力を持つお方、神の子であるということです。



 「イエスはその人たちの信仰を見て」(5節)とあります。主イエスに助けを求める切なる願い、すがるような思い、それは「信仰」とは呼べないような思いだったかもしれません。しかし主イエスはその思いを「信仰」として受け止め応えてくださったことを、心に留めたいと思います。
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 2020年8月2日 
「憐み深く」加藤誠牧師
マルコによる福音書1章40−45節



 「重い皮膚病」が現在理解されているハンセン氏病と同じであるかは議論がある。しかし、主イエスの時代、「重い皮膚病」と診断されることは、人生の終わりを宣告されるに等しかった。この人は一縷の望みをかけて主イエスに「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」と声をかける。それに対する主イエスの行動は、当時の常識では到底理解されるものではなかった。



 主イエスは手を差し伸べてその人に触れる。ユダヤ人であるならば「重い皮膚病」の人に近づくことも、まして触れることも固く禁じられている。「深く憐れんで」と聖書は主イエスの行動の動機を語る。 清くなったこの人に対して主イエスは二つのことを命じられた。誰にも話さない事。祭司に体を見せる事。「重い皮膚病」からの癒しを判断するのは、当時のユダヤ人の社会では医者の役割ではなく祭司の役割であった。それはこの病が人の罪と関係していると考えられていたからである。



 この人が祭司のところに行ったのかをマルコは記さない。その代わりにこの人は主イエスが固く禁じた「誰にも話さない」事を、いとも簡単に破り、そのおかげで主イエスは人のいないところに移動したことが語られる。



 マルコが伝えたかったことは主イエスの「深い憐れみ」が「重い皮膚病」のいやしの根底にあったことであろう。この人ばかりでなくシモンのしゅうとめのいやしの時も、主イエスの心の奥底にはこの「深い憐れみ」があったはずである。しかし善意ではあろうがいやされた人の反応が、主イエスの宣教の妨げになってしまう現象を私たちは見る。



 コロナ禍で教会は様々な制限を受けている。人と会うこと自体が難しくなっている今、私たちはますます主イエスの「深い憐れみ」に目を留めて主イエスの後に付いて歩んでゆきたいものである。
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