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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2020年10月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2020年10月25日 
「信じる心」加藤豊子牧師
マルコによる福音書5章21−34節



 12年間も病に苦しむ一人の女性と主イエスとの出会いが語られています。医者にかかってもひどく苦しめられ、全財産を使い果たし、とあります。また出血が止まらないというその症状の故に、彼女は汚れたものという扱いを受け、礼拝にも参加できず、人と関わることも許されませんでした。彼女は何重もの苦しみを受けていたわけです。彼女は主イエスのことを聞き「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思い、群衆の中に紛れ込んで後ろから手を伸ばし主イエスの服に触れました。この女性の思いはとても信仰とは呼べないようなものかもしれません。しかし、すがるような思いに主イエスは応えてくださり、この女性は自分が癒されたことを知りました。



 彼女は誰にも気づかれず、主イエスにも知られずに黙ってその場を離れたかっただろうと思います。しかし主イエスは「誰がわたしに触れたのか」と問い、彼女が自分の方から主の前に進み出ることを求められました。病が癒されただけで立ち去ることを、お許しにならなかったのです。主イエスは私たちに対しても、同じことを願っておられるのではないでしょうか。神様の恵みに触れながら、黙って去ってしまうのではなく、主イエスの前に出て、一対一の確かな関係を結ぶことを望んでおられます。



 今まで一人の人として扱われてこなかったこの女性に対し、主イエスは「娘よ」と優しく呼びかけられました。そして「安心して行きなさい。」と言われました。これは、直訳すると平和の中に行きなさい、という意味です。自らの罪のために、私たちと神様との関係は破れていました。しかし主イエス・キリストの十字架を通して、そこに平和が与えられたのです。その平和の中を、神の御手の中を歩み続けなさいと招かれています。
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 2020年10月11日 
「成長する種」加藤豊子牧師
マルコによる福音書4章26−32節



 主イエスは「成長する種」「からし種」という二つのたとえ話を語られました。両方とも、「神の国」を表しているお話です。



 「成長する種」のたとえで心に留めたいのは「土はひとりでに実を結ばせるのであり」(28節)という言葉です。「ひとりでに」はギリシャ語で「アウトマテ―」という言葉で、これは「オートマチック」という言葉の元になっています。水や肥料を与えたり、作物の成長のためには人の手による手入れが大事なわけですが、種を蒔くといつの間にか、知らないうちに育っていたということもあると思います。種そのものに力が与えられています。ひとりでに実を結ぶということは、人の理解を超えた、人の力の及ばないところで神様が種を成長させてくださっている、実を結ばせてくださっているということを表しています。



 「からし種」のたとえは、小さな種が思いがけず大きく成長するという姿が示されています。からし種はゴマ粒よりも小さく、吹けば飛んで行ってしまうようなものですが、成長すると大きいもので5メートルにもなるといいます。「葉の陰に空の鳥が巣をつくれるほど」とあるように、ただ大きく成長するというだけではなく、鳥が安心して巣を作れるように、人々がそこに平安や安心を見出す拠り所になるという姿を表しています。福音の種を蒔かれた一人の人が、また一つの教会が、多くの人々を癒し豊かにする存在へと成長させていただけることが表されているのではないでしょうか。



 私たち一人一人、また教会に神の国の福音の種は蒔かれています。その驚くべき成長を私たちも見ることができることを心に留めたいと思います。
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 2020年10月4日 
「ともし火」加藤誠牧師
マルコによる福音書4章21−25節



 東京の新宿に住んでいると、まず灯りのない夜はありません。マンションの中も駅に向かう道も十分な明りで照らされています。9年前の東日本大震災の時に仙台に行きましたが、水道や電気と言ったライフラインが止まった状態でしたので、夜の10時の仙台は100万人都市とは思えないほど暗闇に包まれていました。しかも非常に寒く、海岸地域では凍死した人も実は多くいました。



 3日目に石巻に行き、そこで一人の男性と出会いました。仙台から出張中に津波に巻き込まれ、かろうじて生還した男性です。携帯は水につかり会社や家族と3日連絡が取れない状態でした。私たちは彼を石巻から仙台に車で運びました。携帯を充電し、市内に入って電波の受信が可能になりました。すると彼の携帯に同僚や家族の安否を問うメールが百通は入りました。電話が繋がった時の喜びを私たちは分かち合いました。



 不思議な出会いでした。私たちは名乗らずに彼を自宅まで送りました。彼にしてみれば、突然に表れた親切な隣人だったと思います。この経験は3か所に設置したボランティアセンターの基本方針になりました。衣服に名札を付けますが、私の場合は「まこと」だけです。被災者が呼びやすいようにとの配慮です。牧師という肩書も苗字も東京から来たことも必要ありません。ただの「まこと」です。



 聖書は「ともし火」について語ります。翻訳を無視して直訳すれば「ともし火が来る」となります。おそらくともし火は小さな灯りです。しかし2000年前のユダヤでは真っ暗闇の中、家の中を照らす唯一の光です。主イエスは「ともし火が来る」のだと言われます。このともし火は主イエスを指すと考えても良いでしょうし、聖書の言葉ととらえてもいいと思います。私たちは暗闇の中に置かれることがあります。道に迷うことがあります。しかしともし火が来ることを聖書が語っていることを覚えたいと思います。
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