シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2020年11月 | 1日 | 8日 | 15日 | 22日 | 29日 | 目次に戻る |
2020年11月29日 |
「主の平安」加藤豊子牧師 マルコによる福音書6章45−52節 |
◇ ガリラヤ湖で、逆風のために危険にさらされた弟子たちを、主イエスが助けてくださった出来事が記されています。似たようなお話が、マルコの4章にもありました。そこでは、主イエスは最初から弟子たちと一緒に船に乗り込んでおられ、嵐をおさめてくださいました。今日のところでは、弟子たちの乗った船に主イエスは乗り込んでおられません。そのことをはっきりと示すように「夕方になると、船は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。」(47節)とあります。漕ぎ悩んでいる弟子たちのところに主イエスが来られたのは明け方とありますから、ほぼ半日もの間湖の上で、恐怖にさらされていたことになります。 ◇ その間、主イエスは何をしておられたのか。46節には「群衆と別れてから、祈るために山に行かれた。」とあります。しかし、一人山で祈っておられた主イエスが「逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」(48節)とあります。どのようにして弟子たちを見ることができたのでしょうか。弟子たちには主イエスの姿が見えません。主イエスは遠くにおられる、としか思えません。私たちも、主イエスが遠いと感じることがあるかもしれません。しかし主は、私たち一人一人の歩みを見ていてくださるお方です。 ◇ 「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、…」(45節) 弟子たちが嵐に遭ったのは、主イエスが舟に強いて乗せたからではないか。乗せられなかったら、嵐に遭うこともなかったのではないか…と思わされたりします。神様に召し出されて始まる私たちの信仰の歩みというものも、決して順風満帆ではありません。昔から船は、私たちの教会にも譬えられます。教会の歩みもまた同じで、逆風に吹かれたり沈みそうになったり、様々な所を通らされてきました。しかし、どのような状況にあっても「わたしだ。恐れることはない。」という主の平安が約束されていることを感謝したいと思います。 |
2020年11月22日 |
「5餅2魚」加藤誠牧師 マルコによる福音書6章30−44節 |
◇ マルコ6章は主イエスのナザレでの出来事から始まる。5節後半の「そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」との言葉は衝撃的である。人々の不信仰に驚かれつつも、主イエスは12弟子を宣教に派遣する。今日の箇所はその直後の出来事である。 ◇ 旅から帰った弟子たちには休息が必要であった。人里離れたところで休みを取ろうとしたが、群衆はそれを許さなかった。主イエスはその群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれ」た。ナザレでの主イエスの悲しみはいかばかりであったろう。人々のあまりの不信仰に奇跡を行うことがおできにならなかったのである。しかしここでは本質的にナザレと同じ性質を持つ群衆に対して、それでも「深い憐れみ」を持たれる主イエスに私は驚嘆する。 ◇ 恐らくは一万人を超える群衆を前にして、主イエスは弟子たちにパンの数を確認させる。主イエスにとって無限に生えている草や石をパンに変えることも可能であったろう。そしてそれこそが悪魔が、そして王にしようとする人間が望むことでもあったと思う。ヨハネ福音書には誰が5つのパンと魚二匹を差し出したのかが記されている。少年である。そしてヨハネは「御自分では何をしようとしているか知っておられた」と私たちに伝える。主イエスは無から有を生み出す力をもったお方である。しかしここでは断固としてこの少年の心が、小さな信仰が必要であった。 ◇ ナザレでは人々の不信仰に驚き何一つ奇跡を行うことができなかった主イエスが語られ、ここでは大人の数には入らない少年の小さな、しかし持っていた弁当全てを差し出すという大きな信仰が主イエスをして一万人以上の腹を膨れさせるという奇跡に繋がっている。そしてこの事柄の本質を理解できない群衆の姿が最後に映し出される。 |
2020年11月15日 |
「宣教訓練」加藤誠牧師 マルコによる福音書6章6b−13節 |
◇ 今日の聖書の箇所には主イエスが弟子たちに行った貴重な伝道訓練の様子が記されている。具体的にどこに弟子たちが派遣されたのか、或いは何回くらいこのような訓練が行われたのかは分からない。そしてどのような基準で二人一組のチーム作りがされたのかも記されていない。 ◇ しかし想像できることも多くある。彼らは相棒と馬が合おうが会うまいが協力せざるを得ない状況に置かれた。主イエスは恐らく6チームをわざと財布にお金を持たせず、更にはパンも持たせずに派遣したのである。行先くらいは紹介されたのかも知れないが、「迎え入れず、耳を傾けようともしない所」があることも示唆されていた。 ◇ 彼らはお互いに助け合わねばならない状況にあった。お互いが助け合わねばならないばかりか、人の親切に助けられなければ、旅を続けることは不可能であった。食料も着替えもお金も持たせてもらえなかったからである。そしてそれこそが主イエスの弟子たちへの訓練であった。 ◇ 「悪霊を追い出し、多くの病人をいやした。」と13節に旅の結論が記されている。確かに彼らは主イエスから「権能」を授けられていた。しかしこの「権能」は決して超能力のような類のものではない。彼らは苦しい旅を通じてお互いに祈り合うことを学んだはずである。何も持たせずに主イエスは彼らを派遣した。それは神様にのみ祈りをもって頼る訓練だったはずである。であるからこそ「権能」は発揮された。 ◇ 主イエスの十字架と復活後、彼らがどのように宣教したのかは多くは語られない。しかし体は離れていても、主イエスの訓練を通じて祈り合った経験は、彼らを生涯生かしたはずである。神学校で寮生活を送る意味は、祈りの友に出会うことかも知れないと思わされている。名古屋で出会い、一緒に伝道した仲間たちは、今でも仲間であり、貴重な友人である。主イエスを信じて教会に繋がることは、豊かな出会いを私たちに与える。 |
2020年11月8日 |
「故郷で」加藤豊子牧師 マルコによる福音書6章1−6節 |
◇ 先週の聖書箇所では、二人の人物の信仰とそれに応えてくださった主イエス・キリストの姿が語られていました。 一人は、12年間も病に苦しんできた女性でした。その病故に人前に出ることはできず、イエスの服にでも触れればきっといやしていただける、そう信じて後ろから手を伸ばしました。「娘よあなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」そう主イエスは応えてくださいました。 ◇ もう一人は、ヤイロという会堂長でした。彼の幼い娘は今にも死にそうな状況で、彼は人目もはばからずに主イエスの足元にひれ伏して、助けを求めました。この必死な願いに主イエスは応えてくださり、死んだと思われた娘は起き上ることができました。 ◇ この二つのお話に共通しているのは、ひたすらに主イエスを求める姿、信仰、そして主イエスの癒しと慰めが語られているところです。それに比べると、6章1節以下は大変対照的な内容になっています。6節には「そして、人々の不信仰に驚かれた。」とあります。人々の信仰ではなく、不信仰が注目されています。そしてその不信仰故に、主イエスはごくわずかな病人をいやされただけで、他には何も行うことができなかった、とあります。 ◇ これは、主イエスの故郷、ナザレの町での出来事です。主イエスの話を聞いた人々は、「どこからこんな知恵を得たのか」と言って驚き、また「イエスにつまずいた。」とあります。故郷の人々は主イエスのことをよく知っていました。家族のことも大工であったことも、自分の目で見てきたわけです。しかしその知識が邪魔をして、神の子イエスキリストを前にしながら、そこに神の働きを見ることができませんでした。自分の知識、経験を越えるもの、それ以上のものを受け入れることができなかったのです。 ◇ 私たちも、自分が身に着けている知識や経験というものが、神様に真っすぐに向かう心を妨げてしまうということがあるのではないでしょうか。主は、私たちが信じる者となることを求めておられます。 |
2020年11月1日 |
「起きなさい」加藤誠牧師 マルコによる福音書5章35−43節 |
◇ 今日の箇所は一つの流れの中で二つの出来事が起きたその後半部分です。ヤイロと女性とは直接の関係はなさそうですが、その行動は対照的です。主イエスは大勢の群衆と共にいました。彼らは主から福音を聴くために集まってきたと思われます。その人々をかき分けるようにヤイロは登場します。最も娘が危機的な状況にあり、最後の望みが主イエスだった訳ですから、足元にひれ伏すのも彼の必死さの故だと思います。一方の女性も主イエスが最後の望みであったことに変わりはありませんが、後ろからそっと主の服に触ります。 ◇ 女性の問題が解決して、いよいよ主イエスがヤイロの家に行く番になりました。しかし無念にも「お嬢さんは亡くなりました」との知らせが届きます。恐らくショックで呆然としているヤイロに主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけます。主イエスは群衆に後を追うことを許さず、弟子の中から3人だけ連れてヤイロの家に行きます。大声で泣きわめく人たちも家の外に出し、ヤイロと彼の妻そして3人の弟子と共に人々が死亡したと確信している娘の所に主イエスは入ります。「タリタ、クム」との言葉が主イエスから発せられるとすぐに娘は起き上がります。この間、ヤイロは一言も発していません。ですから私たちは彼が何を感じたのかを知る由がありません。 ◇ 親にとってまだ十分に若い子供の死は、受け入れがたい残酷な出来事です。主イエスの周辺には、そして私たちの日常にも残酷な現実が牙を剥くような時があります。私たちは思考停止に陥り言葉を発することもできなくなります。しかし主イエスは私たちに語りかける言葉を持ちです。「恐れることはない」と。 |