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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2021年2月28日 
「キリストの味方」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章38−41節



 誰が一番偉いのか?という議論が十字架の待つエルサレムに向かう主イエスの弟子たちの関心事でした。マルコ9章ではその話題の中心に誰がいたのかは示されません。しかし、今日の箇所を読むとヨハネがその中心にいたとしても不思議ではなかったと、福音書の他の箇所を御存じの方ならば納得されると思います。



 主イエスの名を使って悪霊を追い出している者がいたことがヨハネによって主イエスに告げられます。例によってその人物の背景は全く語られません。ただ主を信じる者の一人だったのではないでしょうか。「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」とヨハネは語ります。それだけの力が与えられながら、私たちの弟子グループに加わらないのはけしからん、という訳です。なぜ加わらないのかその理由も明らかになりません。



 主イエスの返答は明快でした。「やめさせてはならない」です。彼は私たちの味方だとヨハネを諭します。非常におおらかな主イエスの対応です。



 10年前の東日本大震災の時、教団は3か所にボランティアセンターを作りました。中心は仙台の東北教区事務所が入る一室を借りたエマオと名付けられたセンターでした。初期のボランティアは非常に意識と行動力が高く、朝7時から夜の12時まで動く人たちが自然にリーダーになりました。そして彼らと同じように動ける青年たちが中心になり、中年のボランティアたちが肩身の狭い思いをするようになりました。自分たちこそ本物のボランティアだと勘違いした青年たちは、人を裁くようになりました。



 その姿勢と体制を変えるのには苦労しました。人はけっこう簡単に自分が正義になってしまうものです。だからこそ私たちは主イエスの言葉に聞かなくてはなりません。主イエスを通してしる神様の私たちを見る視線が、いかに慈しみと優しさに満ちているかを知らなくてはならないのです。
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 2021年2月21日 
「十字架と復活」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章30−32節



 内容的には先週の続きになります。主イエスは2度目の十字架と復活の予告をされました。しかし弟子たちは主イエスの言葉の意味が分からず、けれども不安は感じており「怖くて尋ねられなかった。」と聖書は告げます。カファルナウムのとある家に着いてから改めて主イエスは弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねます。



 彼らは黙る以外ありませんでした。苦難の話を主イエスがなさったにも関わらず彼らの関心事は「誰が一番偉いか?」でした。ひょっとしたら主イエス亡き後誰がリーダーになるかを話し合っていたのかも知れません。何も答えられない弟子たちに主イエスは「すべての人に仕える者」こそが一番偉いのだと語り、一人の子どもの手を取って抱き上げ「わたしの名のためにこのような子どもの1人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と語りました。



 「このような子ども」と主イエスは言われたのですが、どのような子どもなのか聖書は語りません。ただ当時は親に恵まれない子供も多くおり、そのような子どもの1人ではなかったのかと言う学者もいます。 ここで主イエスは子供のような素直な心を持つものが一番偉い、と言っているのではありません。保育園では幼児を見ていると、言葉のコミュニケーションが出来る以前には、圧倒的に欲望に忠実に行動します。欲しいものがあれば横取りし、時にはひっかいて相手を傷つけます。



 ここで主イエスは弟子たちにトラブルメーカーとしての子どもを主イエスの名の故に受け入れなさい、と勧めているように感じます。何故なら主イエスはトラブルメーカーを愛されるからです。ここで言われているのは子供の事だけではないようです。私たちの周囲には小さな「困ったさん」がけっこういるのではないでしょうか?私たち自身が「困ったさん」の可能性もあります。主イエスの目から見れば。主イエスが私たちを受け入れたように私たちも人を受け入れるよう勧められています。
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 2021年2月14日 
「十字架と復活」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章30−32節



 2回目の十字架と復活の予告です。8章から物語の中心は十字架と復活に徐々に移っていきます。第一回目の予告は8章31節に出てきます。2回目は少し表現が違っています。主イエスを苦しめ殺す者たちが祭司長、律法学者、長老でなくて「人々」になっています。主イエスを十字架につけ、苦しめ、殺したのは「人」です。その人の中にはあなたや私が入っています。



 もう一つの違いは「排斥され」が「引き渡され」になっています。聖書をよく読まれる方ならばローマの信徒への手紙8章32節を連想する方もおられるのではないかと思います。そこには「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は」とあります。マルコ9章では主イエスは人目を避けていますが、ローマの信徒への手紙を読むと、主イエスを「死」に引き渡されたのは神ご自身です。しかも「わたしたちすべてのために」とあります。主イエスの十字架は「わたしたちすべてのため」です。主イエスを信じようが信じまいが、聖書は全人類すべてのために十字架におかかりになったと私たちに告げます。



 このメッセージを教会は託されています。時代がどうであろうが、キリスト者が少数であろうが、教会はこのメッセージを周囲の人たちに伝える使命を持ちます。日本基督教団が宣教師を派遣し、受け入れているのも主イエスが「わたしたちすべてのために」十字架にかかられ復活されたからです。



 もしオリンピックが開催されれば推定7千人のキリスト者がオリンピック村に滞在します。過去のオリンピックでは礼拝のための宗教施設が用意されていました。今年はコロナのために対面型の礼拝は出来なくなります。しかしズームを使えば世界中からの応援メッセージを安全に届けることが出来ます。福音は思わぬ状況下でも前進するものだと思わされました。
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 2021年2月7日 
「信仰のない時代」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章14−19節



 主イエスが3人の弟子のみ連れて「高い山」に登られている間、主の帰りを待っていた他の弟子たちのもとに霊に取りつかれた子供を持つ父親が助けを求めてきた。しかし弟子たちは霊を追い出すことが出来ず、大勢の群衆に取り囲まれ、律法学者たちと議論している中に主イエスが来られた事が記される。



 どのような議論が行われていたのかは不明であるが、追い出せなかった事実を前にしては、弟子たちがいかなる弁明を行っても群衆や律法学者たちが納得することはなかったであろう。そして最も納得がいかないのが父親であった。父親からの「苦情」を聞いた主イエスは「なんと信仰のない時代なのか。・・・いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。」と弟子たちに向けて語られます。



 その子を主イエスのもとに連れてきた父親は主イエスとの「やりとり」後に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫ぶ。直訳すれば「私の不信仰をお救いください。」である。



 主のいやしを見た弟子たちは「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と主に尋ねる。主の答えは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない」であった。ではその子を前にして弟子たちは祈らなかったのであろうか?6章では主に派遣された12弟子たちが「多くの悪霊を追い出し」たことが記されている。だからこそ9章の父親も主イエスが不在であったとしても、その弟子たちならば息子と家族を苦しめる霊を追い出すことが出来ると思ったのではないだろうか?6章7節には弟子たちが「汚れた霊に対する権能を授け」られたことが記されている。一時的なこの成功体験が彼らをして特権意識を芽生えさせ、祈る事を忘れさせたのではないだろうか?

 「信仰のないわたしをお助け下さい。」とのひたむきで自らを偽らない祈りが求められている。
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