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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2021年3月28日 
「天に富を」加藤誠牧師
マルコによる福音書10章17−22節



 「神の痛みの神学」の著者である北森嘉蔵先生は、神学校の授業中しばしば「聖書は眉に唾をつけて読め」と言われた。聖書の奥深さを先生流の表現で学生に伝えたのであろう。



 28節で「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。」とペトロが言い出す。青年との問答の後である。言いたい気持ちは分かるが眉に唾をつけて聞く必要があるであろう。なぜなら十字架に向かう主イエスの姿勢とはうらはらに弟子たちの関心事が「誰が一番偉いのか?」であったことをマルコは繰り返し伝えるからである。何もかも捨てたつもりでも、実は捨てきれないものを抱えているのが弟子たちでありわたしたちではないだろうか。



 永遠の命について尋ねた青年の主イエスに対する返答も驚くべきものである。「殺すな・・・」以下十戒の後半部分について言及された主イエスに対して「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのである。教会に繋がる人で十戒の後半部分を「子供の時からみな守ってきました」と言う人を私は知らない。もしいたとしてもその人を信じる自信がない。



 主イエスはこの青年を慈しまれた、と聖書は語る。だからこそ持ち物を売り払い、貧しい人々に施し主イエスに従うように声を掛けられた。聖書はたくさんの財産を持つこの青年が悲しみながら立ち去ったことを伝える。



 全ての財産を売り払い、貧しい人々に寄付すれば永遠の命が手に入るのであろうか?答えは否である。主イエスを信じ主イエスに従う思いを持つこと以外に私たちの救いはない。しかしながら「天に富を積む」生き方、生活をないがしろにして良いはずはない。

 どのように「天に富を積むのか」は人によって違う。それこそ主イエスに従う生き方の内に示されることを覚えたい。
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 2021年3月21日 
「子どものように」加藤豊子牧師
マルコによる福音書10章13−16節



 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13節)

 おそらく、親が自分の子どもたちを主イエスのところに連れてきたのでしょう。その当時、有名な先生がいると、その人に触れてもらい祝福してもらうために、親は自分の子どもたちを連れて行ったと言われています。いつの時代も、世界中どこででもそのようなことは行われているのではないでしょうか。



 弟子たちはその親たちを叱ったとあります。イエス様の邪魔をしないように、大人が大事な話をしている所に、子供を連れてこないように…ということでしょうか。親たちは、主イエスがどのようなお方なのか、理解していたわけではないでしょう。ただわが子の祝福を願ってやってきたその姿は、ある意味大変利己的であるとも言えます。弟子たちがそのような親を叱ったというのも理解できないことではありません。しかし主イエスは、弟子たちに対して憤り、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」と言われ、子供たちを抱き上げて手を置いて祝福されたのです。



 弟子たちは、これまで主イエスに従ってきた自分たちこそが、一番神の国に近いところにいると思っていたのではないでしょうか。しかし主イエスは、この子どもたちこそ神の国に一番近い存在なのだと言われたのです。



 子どもが純粋無垢な存在だから、ということで神の国に相応しいと言われているわけではありません。弟子たちの間には、誰が一番偉いのかという議論がありました。親も出てきて、自分の息子が一番偉い地位につくことができるうようにと主イエスに願ったという話もありました。そのように、自分が高く評価されることを求める弟子たちに対し、子どもは社会の中で大変小さく弱く、頼りない存在です。自分こそは神の国に相応しいと主張することはありません。誰かに頼らなくては生きていけない存在です。そのような小さな、力ないものが、実は神の国に近いのだと教えられているのではないでしょうか。
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 2021年3月14日 
「キリスト教の結婚観」加藤誠牧師
マルコによる福音書10章1−9節



 今日の箇所は単純にキリスト教は離婚を認めているか否かを論じているのではない。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一7章で結婚と離婚について述べているが、随分と歯切れが悪いように感じる。



 聖書が禁じていようがいまいが離婚の現実はキリスト者同士でも実際に起きているし、信者と未信者の間でも起こり得る。未信者同士は言うまでもない。ただ私の個人的な経験では信者と未信者の結婚は継続しているケースがほとんどである。



 主イエスが大切にしているのは、結婚は「神が結び合わせてくださったもの」という視点である。その前には「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ」とある。結婚の基本条件はそれぞれが「父母を離れて」いることである。つまり一個の独立した人格同士が出会い結婚に至るのである。どちらかがどちらかに従属するのではない。「二人は一体となる」とあるが、これは肉体的な事柄と同時に、それ以上に一つ家庭を基盤にして一つの人生を歩むところまで意味する。異なる育ちをなし、それぞれ独立した人格を持ち、そしてその人格をお互いに尊重して一つの人生を歩むのである。それが聖書の言う結婚である。



 お互いが独立した一個の人格を持つが故に、結婚生活を全うすることは当然困難を伴う。だからこそ聖書は結婚の出来事の根底に「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」と命じる。ヨハネとマリアが「いいなづけ」の関係であったと聖書は語る。聖書の時代には今日のような出会いの機会も少なければ、自由な恋愛をする機会も少なかったのかも知れない。結婚に至る経緯がどのようなものであっても、自分たちの結婚に神の導きをキリスト者は信じるのではないだろうか?結婚に神の導きと祝福を聖書は肯定しているのである。
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 2021年3月7日 
「小さな者よ」加藤誠牧師
マルコによる福音書9章42−50節



 今日の箇所は言葉は何となく繋がるけれども、全体を通して読むと何を言いたいのか良く分からない箇所である。ただこれまでの流れの中で理解すべきであろう。つまり「誰が一番偉いか」という話題が弟子たちの関心事であり、その中心にはヨハネがいた可能性が高い、というのが先週の話である。



 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまづかせる者は、大きな石臼を・・・」とは誰に向けられた言葉であろうか?流れから言って弟子たちである。教会の中で信仰者が信仰者をつまづかせることが起こりうるのである。そしてそれは大きな者が小さな者をつまづかせる、という形で起きる。先週までの流れで言うならば、偉くなりたいもの、一番先になりたいものが小さな者をつまづかせるのである。



 国際会議で教えられることの一つは、国の数だけ正義がある、ということである。言い換えれば人の数だけ正義がある。そして私たちは自分の信じる正義に立つとき、意図しなくても人を裁く。もしこれが仮にヨハネに向けて語られたとしたならば、彼は一体どのような言葉で悪霊を追い出していた信者をやめさせたのであろうか?とつい想像してしまう。



 弟子たちに対して主イエスは「自分自身の内に塩を持ちなさい」と語る。ただの塩ではない。「火で塩味を付けられる」とある。この火は43節以降語られている「地獄の消えない火」である。これは紛れもなく神の裁きへの言及である。私たちは誰一人例外なく神の裁きを受けねばならない。そしてキリストの十字架なくしては全ての人間は有罪である。この裁きをイエス・キリストは私たちの身代わりになって受けて下さった。「火で塩味を付けられる」とは主イエスの十字架によって私たちは自分自身の内に「塩」を持つことが出来るのである。そして「塩で味付けられた」言葉を発するものに変えられるのである。
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