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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2021年6月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2021年6月27日
「祝福を受け継ぐ」加藤豊子牧師
ペトロの手紙一 3章8−12節



 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。」(9節) なかなか難しいことが、求められています。私たち人間の自然な感情というものは、やられたらやり返したい、言われたら言い返したい、というものではないでしょうか。「目には目を、歯には歯を」これは昔からの格言で、ハムラビ法典という世界で4番目に古い法典にも載っています。復讐を奨励しているようですが、実は、行き過ぎた復讐をとどめるための言葉だとも言われていいます。何故なら、人はやられた以上にやり返そうとする、時には何倍にもして返したいと思ってしまうからです。



 しかしイエス・キリストは次のように言われます。「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬も向けなさい」「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」主イエスは十字架の上で「父よ彼らをお許しください。…」と自分を迫害する者のために祈られました。



 「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなた方は召されたのです。」(9節)

 「祝福」とは何でしょうか。この世的な「祝福」とは、富、財産が豊かになること、地位や名誉が与えられることかもしれません。しかし聖書が示す、私たちキリスト者にとっての「祝福」とは「神我らと共にいます」ということではないでしょうか。いついかなる時、どのような状況におかれても、神様は共にいてくださる。その祝福を、祈り求めなさい。他者の為にもその祝福がありますようにと祈りなさい、と勧められています。祝福を受け継ぐ者として、キリスト者は召されているということを覚えたいと思います。
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 2021年6月20日
「魂の牧者」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 2章22−25節



 仕事柄30か国以上を旅したが、強く印象に残った国の一つがブラジルである。宣教師が当時仕えていた教会は、アルト・ダ・ボンダージ教会と言った。アルトつまり高い場所に住むのは貧しい人たちである。レシフェという町からバスで一時間。その村から大学に進んだ青年は一人もいなかった。町で多く見かけるのは離婚した子連れの女性。夜ともなればあちこちに麻薬の売人が立つ。そこで教会は懸命に人と繋がり、支え合う。「義によって生きるように」み言葉が語られる。極限の貧しさの中でも教会には人を引き付ける光がある。彷徨う魂を持つ人たちを受け入れる。



 私たちはいやされる必要がある。一年以上不自由な生活を強いられ、感染に気を使い、人々の心がすさんでいくのを見てきた。愛を感じない不毛な言葉が飛び交い、思いがけない言葉の攻撃に私たちの魂は傷つく。



 ペトロは私たちが癒されるのは、主イエスがお受けになった傷の故だと語る。「あなたがたは羊のようにさまよって」いたとペトロは語る。海外で2度携帯を取られた。スマホ一台あれば航空券の予約、ホテルの手配、列車の予約、訪問先の宣教師との連絡等すべてがこなせる。そのスマホを取られた時の不安感を忘れることは出来ない。いかにインターネットに依存していたかである。それだけではない。電話を通して人と繋がり、人の声を聴くことができる安心感は格別である。



 ペトロは主イエスを「魂の牧者であり監督者」であると言う。基本的に人と接することが禁止されているオリンピック村にカウンセリングルーム兼祈祷室を2部屋作った。一人になり魂の牧者に祈る部屋である。そこに人は常駐していないが、最も大切な部屋を用意できたと思っている。
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 2021年6月13日
「神の僕として」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 2章13−17節



 日本の教会で一番人数が多いのは恐らく四谷にある聖イグナチオ教会であろう。会員数は15,000人と言われている。教団で最も規模の大きな東京教区全体に匹敵する人数である。聖イグナチオ教会はイエズス会に所属する教会であり、イグナチオ・デ・ロヨラによって派遣されたのがフランシスコ・ザビエルであり、共に創設者の一人とされている。歴史を考えるならば、聖イグナチオ教会こそが日本を代表する教会と言えるであろう。イエズス会宣教師は「神の兵士」とも呼ばれる。実際デ・ロヨラは修道士になる前は軍務についており、その経験の故かイエズス会は教皇への忠誠の厳しさで知られる。



 12節では「異教徒の間で立派に生活しなさい」とあるが、ザビエルによって布教が始まった日本で、わずか半世紀で90万人の信者が生まれたと考えられているが、そこには修道士たちの生活の証があったことは容易に推察される。ちなみにプロテスタントの宣教師たちが入国した時代は、依然としてキリスト教は禁教であった。しかし彼らから英語を学んでいた学生たちは、礼拝や祈祷会に参加は許されなかったが、彼らの生活する姿を見て迫害も顧みず洗礼を受けた。



 ペトロは当時の社会制度を受け入れるように勧める。同時に善を行う「自由な人」として生活するようにも進める。当然のことながらキリスト者は社会のルールを守るべきである。ペトロの教えはもっと積極的である。「善を行う」ことによって無知な人間のマイナスの発言を封じるように勧める。常に善を行うことは難しい。キリスト者といえども人並み以上に傷つきもするし逃れられないような復讐心に捕らわれることもある。しかしペトロはそのような私たちに「神の僕」として生きるように招くのである。
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 2021年6月6日 
「生きた石」加藤誠牧師
ペトロの手紙一 2章1−4節



 「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。」(4節)

 ペトロは主イエスは人々から見捨てられたのだ、と言います。人々にとって主イエスは関わり合いを持ちたくない存在、役に立たない存在であった、と聖書は告げます。これは昔の事ではありません。今日も主イエスは人々から見捨てられています。イエス・キリストを信じても自分には役に立たないと多くの日本人が思っています。教会に関わる時間があるならば自分のために使いたいと多くの人が思っています。



 しかし、ペトロは告げます。私たちの主イエスは人ではなく神に選ばれた存在なのだと。イエスを主と信じる者は、主が神に選ばれたがゆえに神に選ばれた存在なのです。



 もう一つここでは主イエスは「生きた石」と呼ばれています。使徒言行録4章11節では「この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です」と主イエスの事が言われています。イエス・キリストは家を建てる時の土台となる石であると言われています。それは私たち一人一人の人生の土台となる石という意味です。



 「石」という言葉から、これ以上ない硬さを持った土台というイメージを持ちますが、同時にこの石は「生きた石」であると言われています。石という物質から「生命」のイメージをつかみにくいのですが、この石を土台として生きる者は主イエスの「生命」に繋がり生かされていることを覚えたいと思います。
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