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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2021年8月29日 
「闇を照らす光」加藤豊子牧師
マタイによる福音書4章12−17節



 「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ。」(15.16節)

 イザヤ書9章からの引用が記されています。アドベントの時によく読まれる預言者イザヤの言葉です。マタイによる福音書には旧約の預言の言葉が多く引用されており、「預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。」と記されています。イザヤが預言した時代は、主イエス・キリストの誕生より700年も前のことです。メソポタミアの大国アッシリアに攻め込まれ、北イスラエルは危機的な状況に陥りました。「ゼブルンの地とナフタリの地」とありますが、これはガリラヤ湖付近、イスラエルの一番北の地域であり、主イエスが伝道を始められたガリラヤでありました。



 この地はかつてアッシリア軍に攻め込まれた時、最も激しく破壊され、傷を深く負った所でした。

 「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩…」(イザヤ8:22)

 とあるように、その地の人々は「暗闇に住む民」となりました。しかしそのような中でイザヤは「闇の中を歩む民は、大いなる光を見…」と闇に輝く光の到来を告げました。そしてさらに「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ9:5)と救い主の誕生を告げたのです。



 地を見渡せば、わたしたちが生きている今のこの世界も、闇に覆われているような状況です。戦争により多くの人々の命が失われ、格差が広がり貧しい者弱い立場のものが虐げられています。繰り返される感染症のような病に対しても、わたしたちは無力さを覚え不安を抱えています。しかしどのような闇の中を通されていも、イエス・キリストはわたしたちを照らす大いなる光であり希望です。わたしたちにとって最大の闇は、罪と死の問題であります。ただ一人、そこに光をもたらすことにできるお方が、わたしたちと共に歩んでくださることを感謝したいと思います。
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 2021年8月22日 
「ただ主に仕えよ」加藤豊子牧師
マタイによる福音書4章5−11節



 主イエスが悪魔から、三つの誘惑を受けられたことが記されています。先週は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言われ、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と申命記に記されている神の言葉をもって誘惑を退けられたことが語られました。「誘惑」という言葉は「試練」と訳すこともでき、「試す」という意味の言葉だそうです。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスが、いよいよ神の子として本格的な伝道活動を始められるその直前に、この荒野での誘惑の出来事が記されています。主イエスにとって、大切な働きの前に通らなければならない試みの時であり、また備えの時でありました。



 悪魔は主イエスを高い所に立たせて「神の子なら飛び降りたらどうだ…」と挑発しました。高い所から飛び降りて、どこもケガすることなく地面に立つことができたら、そのような奇跡のような業を見せたら皆、あなたを神の子だと信じ従いますよ、というわけです。主イエスは「あなたの神である主を試してはならない」という神の言葉をもって、誘惑を退けられました。



 さらに悪魔は主イエスを高い山に連れて行き、世のすべての国々の繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。これは、権力者になるという誘惑です、権力を握り、人々を支配し、自分の思うようにすることができるというわけです。主イエスは「ただ主に仕えよ」という神の言葉をもってその誘惑も退けられました。



 これらの誘惑に共通しているのは、どれも人々の注目を集める、栄光に輝く神の子の姿を示していることです。しかし、主イエスが歩まれた神の子としての姿は、そのような輝かしいものではありませんでした。それは十字架に向けて歩む、苦難の僕としての姿でありました。ただ主に仕える者として、ご自分に与えられた使命の道を歩まれたのです。
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 2021年8月15日 
「人は何で生きるか」加藤誠牧師
マタイによる福音書4章1−4節



 飢餓に苦しむ人にとって、もし石をパンに変えることが可能であれば、それは福音であろう。現在の科学ではどう考えても不可能であるが、食糧問題に悩む国は多い。昔はニューヨークへの出張は楽しみであった。安価にピザやハンバーガーが楽しめた。しかしここ最近パン類が驚くほど不味い。スーパーに入ると保存料等の化学物質の匂いで頭痛がする。小麦粉アレルギーの人が増えるのも納得である。食料問題は貧しい国にとって深刻であるが、富める国においても深刻な一面がある。



 40日40夜の断食の経験のある人などそうはいない。「空腹を覚えられた」と聖書は語るが、普通は飢餓状態であろう。ここで悪魔は「誘惑」する者として登場する。悪魔にとって主イエスに「石をパンに変え」させて何の得があるのだろうか?石をパンに変えることは、聖書のどこを探しても罪には当たらない。しかも主イエスにとっても命の危険を覚えるような状況であったはずである。しかも私たちとは違い、神の子キリストには石をパンに変えることは可能であったのではないだろうか?



 主イエスは悪魔の誘惑に対して「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と反論し退ける。「書いてある」とは旧約聖書の申命記8章3節の引用である。旧約聖書のこの箇所はかつてイスラエル民族が40年にわたり経験した「荒れ野」の旅が背景にある。そしてイスラエルを荒れ野で生きながらえさせたものは神が与えるマナであった。



 マタイは敢えてマナの事は伏せたのかも知れない。人は生きるためにパンを求める。しかしパンだけが人を生かすものではないことを主イエスは教える。
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 2021年8月8日 
「主イエスの洗礼」加藤豊子牧師
マタイによる福音書3章13−17節



 洗礼者ヨハネが授けていた洗礼とは、当時のユダヤの人々に悔い改めを呼びかけてなされたものです。自分たちは生まれながらのユダヤ人、神に選ばれた民なのだから、今さら悔い改めて洗礼を受ける必要はないとあぐらをかいているようなユダヤの人々に対して、「本当にそれでいいのか、自分たちは神の民であるという資格があると言えるのか」と問いかけたのです。このヨハネの運動は、信仰を目覚めさせる運動のようなものであり、呼びかけに対して多くのユダヤ人たちが心を刺され、悔い改めて罪を告白し、洗礼を受けようと集まってきたわけです。



 そのヨハネのもとに、主イエスが洗礼を受けようとしてやって来られました。神の子主イエス・キリストこそ、悔い改めや罪の告白の必要がない、全く洗礼を受ける必要がないお方であると言えます。そのようなお方が、何故洗礼を受けられたのでしょうか。そこには、罪人である私たちと同じ所に立ってくださる、どこまでも低い所に身を置いてくださる救い主の姿が示されています。主イエスが誕生されたのも、王宮のような立派な場所ではなく、家畜小屋の飼い葉おけの中でした。最も貧しいところ、とても美しいとは言えないような場所に生まれてくださったのです。



 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」(フィリピ2:6)

 罪のない、清いお方が、罪にまみれた私たち人間と同じところまで下りてきて、そこに立ってくださった。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、罪人と同じ同じ所に立って洗礼を受けられ、やがてすべての人の罪を背負って十字架に架かられた主イエス・キリストの姿の中に、神様の私たちへの愛があらわされています。
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 2021年8月1日 
「聖霊と火で」加藤誠牧師
マタイによる福音書1章7−12節



 数日前にユダヤ教のラビからメールが来た。オリンピックの取材に来たイスラエルの記者が池袋のホテルに泊まっているが、周辺にコーシャの食事を提供するレストランがないので助けてほしい、という内容であった。ユダヤ人の食事の規定は正統派になればなるほど厳しい。ユダヤ教徒用に特別に調理された食事しか取らないのである。勿論オリンピック村には用意されてあるが、東京で普通に手に入れるのはかなり難しい。新大久保あたりでは「ハラール」と書いてある食材が売られている。これはイスラム教徒用の食材であるが、私の口には非常に合う。



 「ファリサイ派」「サドカイ派」という表現が出てくるが、それぞれユダヤ教の派閥である。どちらかと言えば支配者階級であり、彼らなりにまじめに律法を守る人たちであった。彼らはバプテスマのヨハネから洗礼を受けに来たのである。しかも「大勢」とある。その彼らに対するヨハネの言葉はこれ以上ないほど辛辣である。「蝮の子らよ」である。「悔い改めにふさわしい実を結べ。」と続く。



 「悔い改めにふさわしい実を結べ。」とはキリスト者にとっても聞くべき言葉である。なぜなら信仰生活に「悔い改め」は必須だからである。神の前での正しい悔い改めは、何らかの形での実を結ぶものではないだろうか。そしてそのことと「聖霊と火」による洗礼は無関係ではない。神を信じない者が信じる者へと変えられるのが伝道である。しかしそこに聖霊が働かれなければ決して人は神を信じない。
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