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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2021年9月26日 
「心の清い人」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章8−9節



 「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。」(8節)

 「何と幸いなことでしょう、心の清い人は。」と主イエスは祝福の言葉を語られています。「きよい」という言葉からは「聖さ」「聖なる」という言葉も思い起こします。しかしここでは「清い」(カサロイ)という言葉が使われています。ギリシャ語の意味は「純粋な」「誠実」「本物」とあります。神様に対して純粋な、真っすぐな心、ぶれない心を持つこと、と言えるかもしれません。



 旧約聖書のヘブル語では「清い人」には「バル」という言葉が使われ「混じりけのない、きよい」状態を意味するそうです。詩編24篇3節以下には次のように記されています。

 「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるのか。それは、潔白な手と清い心を持つ人。むなしいものに魂を奪われることなく欺くものによって誓うことをしない人。」

 私たちの心は、様々な事柄によって揺さぶられ、時に神以外のものに奪われそうになることもあるかもしれません。しかしわたしたちは、主イエスを救い主として信じ受け入れたとき、神のものとされ、神と共に生きる人生へと招かれたのです。この道を歩む者に対し、「その人たちは、神を見る」という約束が与えられています。「いまだかつて、神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)とあるように、この地上に於いて神を見ることはできません。しかしやがて主の日に、神を見るという幸いが、約束されているのです。



 「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(9節)

 多くの人が平和を願い、求めています。しかし現実には、世界の至る所で争いが続いています。私たちは身近な、周りの人々との関係に於いても、平和を実現することが難しいことを覚えます。原因は、人間の罪深さにあると言えるのではないでしょうか。イエス・キリストは唯一、二つのものを一つにし、敵意という隔ての壁を壊すことのできるお方です。
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 2021年9月19日 
「満たされた人生」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章5−7節



 3番目にマタイが「幸いな人」と称するのは「柔和な人々」である。大人であれば、柔和な人でありたいと願わない人はいないであろう。しかし私たちの現実は「柔和」からほど遠い。コロナが流行ってから「教会から寛容さが失われていった」と聞くことが多くなった。人と人が実際に一堂に会して礼拝を守ることが、どんなに教会にとって生命的なことであるかを、私たちはコロナ禍の中で知ったのである。なぜなら私たちの主こそ「柔和な人」そのものであり、その主を礼拝することによって私たちは主の「柔和さ」に近づくのである。



 次に幸いなのは「義に飢え渇く人々」である。「義」とは簡単に定義できる言葉ではないが、私たちの日常に近い言葉で言えば「不公平に立ち向かう」ことであろうか。それが偏った独裁主義であれ共産主義であれ、権力者が望むのは「義に飢え渇かない」人々である。現在の日本は果たして法治国家と言えるのであろうか。興味深いのは続けて「その人たちは満たされる」とあることである。旧約聖書には神の裁きを待ち望む箇所が多くある。私たちは「義に飢え渇く」ことを忘れないようにしたいものである。



 5番目に幸いな人は「憐み深い人々」である。「憐み深い」とは人の罪や過ちを赦すことを知っている人の事である。私たちはいかなる意味でも人から傷つけられることを好まない。世の中には本当に意地の悪い人がいるものである。そのような人たちへの対処に私たちは苦労する。ましてや「憐み深く」あるのは至難の業である。



 私たちはここでも主の言葉に試される。「憐み深く」あるためには相当な意志の力が必要である。しかしそこに「幸い」の道があるのだと主は言われる
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 2021年9月12日 
「幸いな人」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章1−5節



 「山上の垂訓」または「至福の教え」と呼ばれる有名な聖句です。イエスは「山に登られた」とありますが、このことは旧約聖書に於いてモーセがシナイ山に登り、神から律法という十の戒めを与えられたことにつながっているとも言われます。このところでは弟子たちが、山で主イエスから、新しい教え、戒めを与えられています。



 「心の貧しい人々は幸いである…」(3節)と始まりますが、この節を原語通りに訳すと「幸いである、貧しい人々、心において」となります。文語訳聖書では「幸福なるかな、心の貧しき者」と訳されています。どうして「幸福」と「貧しさ」が結びつくのか、不思議に思う主イエスの祝福の言葉です。



 「貧しい」という言葉は、何も無い、自分の中には何も頼るものがない、ということを意味しています。「自分の貧しさを知る人は幸いである」(フランシスコ会訳)「神に寄りすがる、貧しい人々は幸いだ」(塚本訳)という翻訳もあります。「心が貧しい」とは、神の前に自分が無力であること、自分には何も無いことを知り、ただひたすらに神に頼ることのできる人のことではないでしょうか。もし私たちが、自分の心は神様に頼らなくても大丈夫、自分で満たすことができる、と考えているとするなら、それはここで語られている祝福からは、遠い所にいることになるのではないでしょうか。



 「悲しむ人々は、幸いである…」(4節)ここでも、「悲しみ」と「幸い」という言葉が結びついています。わたしたちは皆それぞれに、悲しみを体験しています。大切な人との別れ、人間関係の難しさ、「他人には絶対わからない…」と思えるほどの悲しみを抱えることもあるでしょう。幸いなるかな悲しむ者、と言われた主イエス・キリストは、「彼は悲しみの人で、病を知っていた…まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った」(イザヤ書53章)と語られています。自分では受け止めきれない悲しみ、苦しみを、共に担ってくださる、慰めてくださるお方が、わたしたちに与えられています。
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 2021年9月5日 
「わたしについて来なさい」加藤豊子牧師
マタイによる福音書4章18−22節



 主イエス・キリストが二人の兄弟ペトロとアンデレ、さらにはヤコブとヨハネに、「わたしについてきなさい」(19節)と声をかけられたことが記されています。この漁師であった4人は、主イエスの最初の弟子となりました。主イエスの呼びかけは突然です。その呼びかけに対し、「二人はすぐに網を捨てて従った。」(20節)とあります。どうして即座に、そのような決断ができたのだろう、と不思議に思います。彼らが主イエスに出会ったのは、これが初めてではなかったのかもしれません。すでにガリラヤで「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(4:17)と宣教を始めていた主イエスの言葉を聞いていたのではないでしょうか。



 長年自分の、家族の生活を支えてきた漁師という仕事を捨てるということは、大変重い決断です。主イエスの弟子になるということと、自分の何かを捨てるということは、切り離せないことのように思えます。



 もちろん、主イエスを救い主として信じる決心をしたすべての人に、今の自分の仕事を捨てて、主イエスの弟子として活動する、牧師の働きを担うことが求められているわけではありません。一人一人に対する主イエスの導きには違いがあるでしょう。しかし、主イエスを自分の救い主として信じ、従う決心をしたとき、わたしたちは自分の手に握っている、自分のものとしてきたものを手離して、主イエスに委ねることを求められるのではないでしょうか。わたしの人生はわたしのものと考え、自分の好きなように生きてきたかもしれません。しかし主イエスは、わたしたちの人生に深い神のご計画をもって関わり、導いてくださるお方です。



 「人間をとる漁師にしよう」(19節)今まで、漁師として生きてきた彼らに、多くの人々を主イエスのもとに導くという務めが与えられました。わたしたち一人一人も、主イエスの弟子として招かれまた、託されている働きがあることを覚えたいと思います。
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