シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2021年11月 | 7日 | 14日 | 21日 | 28日 | 目次に戻る |
2021年11月28日 |
「天に富を」加藤豊子牧師 マタイによる福音書6章19−21節 |
◇ 「あなたがたは、地上に富を積んではならない…」(19節)とあります。2千年前の主イエスの時代、古代の財産とは、金貨と銀貨、衣服、穀物や食料、香料などであったそうです。確かに地上では、高価な衣服や倉庫の穀物は虫が食うことがあり、また金や銀の貴金属はさび付いたり、盗まれたりすることがあります。いつの時代も、富や財産は、私たちが生きていく上で必要なものであり、主イエスはここで「富」そのものが悪いものであるとは、決して言われていません。ただ私たちは富を所有していると思っていますが、いつのまにか私たちの方が富に捕らわれてしまう…そのような危険もあるのではないでしょうか。富の持つ力は強力で、それによって私たちが大切なものを見失ってしまうということが起こりかねません。 ◇ 私たちが持っている富、財産、それだけではなく、時間や能力、そして命も、すべては神様から託されているものです。私たちはそれらの良き管理人であることが期待されているのではないでしょうか。 ◇ 「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(21節) 私たちが一番大切に思っているもの、そこに私たちの心があると語られています。私たちは、何を一番大切に思っているのか、私たちの心はどこにあるのか、何を一番頼りにして生きているのか…そのようなことが問われているのではないでしょうか。待降節を迎えました。私たちにとって、イエス・キリストこそ、尊い真の富、宝ではないでしょうか。暗闇を照らす光であり、私たちが順境のときも逆境のときも、共にいてくださる救い主です。 |
2021年11月21日 |
「主の祈り」加藤誠牧師 マタイによる福音書6章9−15節 |
◇ 教団ニュースレター(英文)の翻訳・校正にかれこれ15年ほど関わっている。日本語の文章にはたまに主語がない場合があるが、英文では主語なしの文章はあり得ない。それぞれの言語の特徴を生かし、更に読書量の多い人の翻訳はなかなか見事である。ギリシャ語は単語の変化が厄介であるが、英語ほど複雑な文法はなかったと記憶している。文章の最初に一番言いたい言葉が来る、と言われたことがあるが、確証はない。 ◇ 「天におられるわたしたちの父よ」と訳されているギリシャ語の一番最初の言葉は「パーテル」である。「父上」ではなく「お父さん」くらいのニュアンスであろうか。主イエスのメッセージは、神様を「お父さん」と呼んでいいのだ、ということである。 ◇ 先週は福島県相馬市にある中村教会を訪問した。今年2月に発生した福島沖地震で被害を受けた教会を、遅まきながら問安したのである。福島県では10教会が地震の被害を受けたが、9教会はズームで委員会が聞き取りをした。中村教会は設備がないとのことで、急遽総幹事と私が訪問することになった。原発事故で人口は減っている。しかし135年の歴史があり、記念誌には先人の苦労と神への感謝と祈りがちりばめられていた。何より初めて会う牧師と教会員と共に「父なる神様」と心を通わせて祈れる幸いを実感した。 |
2021年11月14日 |
「祈るときには」加藤豊子牧師 マタイによる福音書6章5−8節 |
◇ 教団ニュースレター(英文)の翻訳・校正にかれこれ15年ほど関わっている。日本語の文章にはたまに主語がない場合があるが、英文では主語なしの文章はあり得ない。それぞれの言語の特徴を生かし、更に読書量の多い人の翻訳はなかなか見事である。ギリシャ語は単語の変化が厄介であるが、英語ほど複雑な文法はなかったと記憶している。文章の最初に一番言いたい言葉が来る、と言われたことがあるが、確証はない。 ◇ 「天におられるわたしたちの父よ」と訳されているギリシャ語の一番最初の言葉は「パーテル」である。「父上」ではなく「お父さん」くらいのニュアンスであろうか。主イエスのメッセージは、神様を「お父さん」と呼んでいいのだ、ということである。 ◇ 先週は福島県相馬市にある中村教会を訪問した。今年2月に発生した福島沖地震で被害を受けた教会を、遅まきながら問安したのである。福島県では10教会が地震の被害を受けたが、9教会はズームで委員会が聞き取りをした。中村教会は設備がないとのことで、急遽総幹事と私が訪問することになった。原発事故で人口は減っている。しかし135年の歴史があり、記念誌には先人の苦労と神への感謝と祈りがちりばめられていた。何より初めて会う牧師と教会員と共に「父なる神様」と心を通わせて祈れる幸いを実感した。 |
2021年11月14日 |
「祈るときには」加藤豊子牧師 マタイによる福音書6章5−8節 |
◇ 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。」(5節) 当時ユダヤの人たちは、一定の公の祈りの時間(朝9時と午後3時)を大切にしていました。より敬虔な人たちの中には、それに加えてさらに正午にも祈ることを習慣としている人がいました。そして祈りの時間になると、町の広場や街角など目立つところにわざわざ出向いて行って祈りをささげる人たちがいたようです。「人に見てもらおうと」…すなわち、いかに自分が敬虔深い者であるかを人に見てもらいたくて祈っていることに問題がありました。 その祈り手の関心は神にではなく、自分自身に向けられています。 ◇ 主イエスは「祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。(6節)と語られました。自分の家の奥に、特別に祈りの部屋を用意しなければならないということではないでしょう。ただここで求められているのは、一人になること。一人になって、神様と向き合うときを持つことではないでしょうか。「祈り」とは、神様に向かって何か口から言葉を発することだけではありません。静かに聴く、神様の語りかけに耳を傾けるという、神様との親しい交わりのときも、大切な祈りです。 ◇ 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」(8節)祈れないときがあり、祈りが言葉にならないときがあります。嘆きや悲しみしかない…そのようなときも、神様はすべてをご存知で受け止めてくださるお方であることを感謝したいと思います。 |
2021年11月7日 |
「偽善者にならないために」加藤誠牧師 マタイによる福音書6章1−4節 |
◇ この当時ユダヤ教の社会では善行つまり神に喜ばれる行いは、施し、祈祷、断食であったと言われている。この三つを人は自己宣伝の手段として使うことがある。そうなれば善行はたちまち神の前での偽善になってしまう。 ◇ インドは路上生活者が多い。物乞いと呼ばれる人たちも多い。南インド合同教会の総会に出席する為に、インドの南端にあるカニャクマリという町に出張したことがある。ヒンズー教の聖地の一つで、巡礼者も多くいた。物乞いをする人たちの中で、赤ん坊を抱えた母親がいたので幾ばくかのお金を渡した。お金を受け取った瞬間、彼女は非常に強い眼差しで私の眼を覗き込んだ。言葉が聞こえた訳ではないのに、彼女の声が聞こえた。「あなたに祝福があるように」そう確かに聞こえた。 ◇ 日本基督教団の中で災害対応もさせていただいている。東北、九州、広島、岡山、千葉、神奈川と地震や水害で被害を被った地域を教団は支援してきた。個々の教会財政が苦しい中、懸命に献金をささげていただいている。しかし圧倒的に災害の規模が大きいのが現実である。特にコロナ禍ではボランティアを送ることもままならない。人道支援は必ずと言っていいほど不完全燃焼に終わる。インドの経験以前は挫折感を持つことが多かった。しかし今は違う。そこに神への感謝をもって献金を用いるとき、そしてボランティアが働くとき、神様が共にいてくださるという信仰に生かされる。 |