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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年1月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2022年1月23日 
「御心ならば」加藤豊子牧師
マタイによる福音書8章1−4節



 マタイ5−7章に記されている「山上の説教」が終わり、山から下りでこられたところに、「一人の重い皮膚病を患っている人が主イエスに近寄り、ひれ伏して…」と記されていいます。



 旧約聖書レビ記13章には、重い皮膚病にかかっている人に対する細かな規定があります。「『わたしは汚れた者です。汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外で住まねばならない。」とあります。自ら「汚れた者です」と周囲に知らせなくてはならず、人に近づくことは許されず、社会から追い出されるという扱いを受けました。この人は、群衆と一緒に山に上ることはできなかった、主イエスに近づいてお話を聞くことなど許されなかったわけです。そのような状況におかれた人に、主イエスは先ず、出会ってくださいました。



 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」(2節)

 主イエスに対する全き信頼をもって、この人は助けを求めています。主イエスはこの人に近づき手を触れ、律法という決まりを破ってでも、その愛を示してくださいました。



 この8章には、主イエスの癒しの物語が続きます。そのことは、イエス・キリストがどのような救い主として私たちのところに来てくださったのかを示しているのではないでしょうか。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」(17節)と、預言者イザヤの言葉が引用されています。当時の人々が期待していた強い権力をもってローマの圧政から解放してくれるメシアではなく、私たちの病を担い、弱い者に寄り添ってくださる救い主として来られたことを心に留めたいと思います。
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 2022年1月16日 
「岩を土台に」加藤誠牧師
マタイによる福音書7章24−29節



 中学の理科の教師が語ったことを思い出した。家の新築の話である。硬い土壌に届くまで20メートル以上掘り、杭を打ち土台を据えたので周囲からは呆れられたが、自分としては満足で安心な家を建てられた、という話である。



 この話はマタイ5章1節から始まる所謂「山上の説教」の最後の部分である。つまり「まとめ」と理解してよい。だからこそ「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは」と主イエスは言われたのであろう。そして主の言葉は「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と続く。



 岩の上の家であろうが、砂の上の家であろうが等しく災害に襲われる。言い換えれば神を信じていようがいまいが、家が吹き飛ばされてしまうような試練がやってくるのである。しかし主は言われる「倒れなかった、岩を土台としていたからである。」



 土台となる岩は普段姿を見ることはない。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うもの」になるようにとの主イエスの教えである。「聞いて行う」という表現から私たちは様々なイメージを持つが、肝心なのは「岩を土台」にすることである。つまり私たちの人生の土台を神とすることである。私たちの人生の土台に神がいてくださると信じて生きることである。



 人の人生を倒すものは究極的には「死」であろう。愛する者を失う辛さは時として私たちの人生を倒すほどの衝撃を与える。あるいは病等で死を意識せざるを得ない人には、その圧倒的な力に倒されそうになる。しかし主イエスは約束される「岩を土台とするものは倒れない」と。主イエスのこの約束は私たちの人生を支えるみ言葉なのである。
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 2022年1月9日 
「実によって知る」加藤豊子牧師
マタイによる福音書7章15−20節



 「偽預言者を警戒しなさい。」(15節) 「偽り」「偽物」というものは、わたしたちの周りにあふれています。主イエスがここで言われている「偽預言者」とは、どのような人のことなのでしょうか。



 預言者とは、神の言葉を預かる者、神の言葉を語る務めを担っている者のことです。今日ならば、牧師もその役割を与えられています。神の言葉を教える者の中に、「偽者」がいると主イエスは言われます。



 旧約聖書、エレミヤ書の中にも、エレミヤとは正反対のことを語る偽預言者が登場します。「偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言している…」と言われています。ペトロの手紙二2章には、「かつて民の中に偽預言者がいました。同じようにあなた方の中にも偽教師が現れるに違いありません」とあります。そして「彼らは羊の皮を身にまとって…」とあるように、偽者だとはっきりわかるようなかたちでは近づいこないのです。わたしたちの意外に近くにも、似て非なるもの、イエス・キリストについての理解が歪められている教えがあります。



 主イエスは「その実で彼らを見分けなさい」と言われます。神のみこころではなく、自分の思い、願いを叶えようとしている。神ではなく、自分に光があたり、崇められることを求めている。そのような行いが真偽を示すことになるのではないでしょうか。



 ここで語られているのは、偽預言者に対する警告だけではありません。「良い木は良い実を結ぶ」とあるように、主イエスにつながるわたしたち一人一人が良い実を結ぶものであるようにとの招きの言葉が語られていることも、心に留めたいと思います。
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 2022年1月2日 
「狭き門より」加藤誠牧師
マタイによる福音書7章13−14節



 「狭き門」と聞くと私は条件反射的に受験を思い出す。特に大学受験は10倍以上の倍率が当たり前だったような気がする。主イエスはここで天国に入るためには受験のような厳しい競争を勝ち抜く必要があるといっているのだろうか?



 「滅びに通じる門」があると主イエスは言われる。付随して言われているのは「広い」という事だけである。具体的な事例が欲しいところである。関連記事と思われるルカ福音書13章では「狭い戸口から入るように務めなさい。」とある。そしてルカでは戸口が閉まる時間のあることが語られる。つまりルカでは神の裁きの時があることが背景にある。勿論その日その時は誰も知らないのであるが。神の裁きの時は同時に神の救いの時である。



 マタイに戻るが、「狭い門」は「命に通じる門」である。けれども「それを見いだす者は少ない。」と主は言われる。「狭き門」は目立たない門なのであろう。あるいは魅力的には見えない門なのであろうか。しかも「その道は細い」とまで言われている。



 一つだけ確かに言えることは、その門から通じる道には主イエスがおられる、ということである。「救い」が私の問題であるならば、究極的には私を救うのは主イエスお一人である。そのことを改めて考えさせられるのがこの「狭い門」という言葉である。そして新しい年も主イエスと共に「細い道」を歩みたいのものである。いかに細くてもそこには主イエスがおられるのだから。
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