シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2022年2月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
2022年2月20日 |
「罪の赦し」加藤豊子牧師 マタイによる福音書9章1−8節 |
◇ 「すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスの所へ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。(2節) 主イエスが中風の人を癒してくださったお話は、マルコ2章、ルカ5章にも記されています。マルコやルカの方が、より詳しく状況が書かれていますが、マタイにしか記されていない言葉もあります。それは「子よ、元気を出しなさい。」という言葉です。この人は、病のため自分では歩けない状態でした。そうした病状だけではなく、仕事もできない、家族や友人の世話になっていることを申し訳なく思うなど、精神的なつらさも抱えていたことと思わされます。主イエスはこの人に「子よ」と親しく呼びかけそして先ず最初に「元気を出しなさい」と声をかけられました。 ◇ そしてその次に主イエスが語られたのは「あなたの罪は赦される」という罪の赦しの宣言でした。この言葉を聞いた律法学者は、主イエスが神を冒涜していると心の中で思ったとありますが、ここで大切なこととして示されているのは、主イエス・キリストこそ、罪の赦しを宣言することができる権威を与えられたお方であるということです。 ◇ 「元気を出しなさい」と主イエスは声をかけられました。元気を出して生きるとは、どういうことでしょうか。それは決して身体が健康だということだけではないと思います。私たちは罪赦されて神と共に生きる者とされるとき初めて、元気を出して生きていく者とされるのではないでしょうか。 |
2022年2月13日 |
「ガダラの豚」加藤誠牧師 マタイによる福音書8章28−34節 |
◇ この物語はマルコとルカ福音書にも記されている。両者と比べてマタイの記述は短い。つまり主イエスと悪霊の関係を中心にマタイは物語る。主イエスが船に乗り、途中嵐を沈めてまで弟子たちとやってきたのは、豚が飼われているガダラ人の地方であった。つまりユダヤ人の町ではない場所である。 ◇ そこで出会ったのが墓場に住む凶暴な二人の人間であった。マタイは彼らの背景については一切語らない。悪霊に支配された二人は主イエスに対峙するために墓場から出てきた。「まだその時ではないのに・・」と悪霊は主イエスに訴える。自分たちが滅びる時はまだ先の事と悪霊は主張する。二人を開放することで滅びを免れようとしたのであろうか、悪霊は「追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と主イエスに願う。この記事で私たちは主イエスの言葉に触れるのはただ一か所「行け」である。すると豚の群れは湖に飛び込んでみな死んでしまった。 ◇ 悪霊がどのような存在なのか、私たちは知らないし恐らく知る必要もない。ただ豚の所有者にとっては大損失であった。町の総意として主イエスに対しては町からの退去が告げられる。そして悪霊から解放されたこの二人についてはマタイはその後を告げない。言わんとすることは明快である。悪霊は主イエスには敵わない。そして主イエスは私たち悪霊、つまり「悪」という存在から解放するためにこの世に来られたのである。 |
2022年2月6日 |
「嵐の中で」加藤豊子牧師 マタイによる福音書8章23−27節 |
◇ 「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」(23節) ここで気付かされるのは、最初に舟に乗られたのは主イエスご自身であって、弟子たちはその後に従って乗り込んだということです。弟子たちが乗った舟に、主イエスが乗ってこられたということではないのです。今日の聖書箇所の少し前のところを読みますと、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に行くように」「わたしに従いなさい。」と命じておられます。弟子たちは、主イエスの言葉に応えて舟に乗り込んだわけです。 ◇ この場面は、信仰を持つということは、実は主イエスと同じ舟に乗るということなのだ、と教えています。イエス・キリストを救い主として信じて従う、弟子になるということは、主イエスと共に舟に乗ることであるという理解…これは、教会の歴史の最初の頃からありました。ですから、教会は昔からよく舟に譬えられてきました。私たちは主イエスに従い、教会という舟に乗り込み向こう岸に向かって旅をしているのです。 ◇ この舟に乗っていれば嵐に遭うことはないというような保障があるわけではありません。嵐の中で助けを叫び求める弟子たちに向かって主イエスは「何故怖がるのか、信仰の薄い者たちよ。」と言われ、嵐を静めてくださいました。私たちが自分で持っていると思っていた信仰は、そのように何とも頼りないものかもしれません。しかし、私たちが依り頼むお方、主イエス・キリストは嵐をも静める力を持っておられます。私たちはこのお方に「助けてください」と叫ぶことができるのです。 ◇ イエス・キリストは教会という舟に、私たち一人一人の人生という舟に、確かに一緒に乗っていてくださいます。そのことによって私たちは、何ものによっても奪われることのない魂の平安が与えられているのです。 |