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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年3月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2022年3月27日 
「12弟子の選び」加藤豊子牧師
マタイによる福音書10章1−4節



 主イエス・キリストが12人の弟子を選び出されたことが記されています。この直前9章35節以下には、イエス様が群衆を見て「飼い主のいない羊のように弱り果てているのを見て、深く憐れまれた」そして「収穫は多いが、働き人が少ない…」と語られたことが記されていました。救いを求めている人は多い、しかしそのために働く人が少ない。主イエスの宣教の働きのために、働く人が少ないということです。この言葉を受けて選ばれた12人は、主イエスの収穫の働き、人々を救いにに導く働きのために選び出されたのです。



 それでは、選ばれた12人はどのような人物だったのでしょうか。最初に「ペトロと呼ばれるシモン」が出てきます。12弟子の中で一番有名な人だと言えます。彼はガリラヤ湖の漁師であり、その次の「アンデレ」はペトロの兄弟で彼もまた漁師でした。その次の「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」この二人もまた漁師でした。主イエスは彼らに「ボアネルゲス」(雷の子ら)という名前を付けたことがマルコ3章に記されています。よほど気性が激しかったのかもしれません。



 12人すべての人について詳しく書かれてはいませんが、実に多様な人達であったと思われます。他の人から尊敬されるような人格者でもなければ、立派な教育をうけたような人でもなかった。欠けを挙げればきりがないような人たちばかりだったと思われます。しかし、主イエスはこの12人を選び、遣わしてくださったのです。



 この主イエスの選びというものは、いつの時代、どこのキリスト教会に於いても同じことがいえるのではないでしょうか。わたしたち一人一人も、主イエスの招きと導きの中に生かされています。
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 2022年3月20日 
「飼い主のない羊」加藤誠牧師
マタイによる福音書9章35−38節



 35節の一節だけでマタイはとんでもない主イエスの仕事量を私たちに告げる。「町や村を残らず回って」とあるが、これは素直に読むとユダヤ人の住む地域全ての町や村と理解できる。巻末の地図を見るとそれは南北120キロ東西60キロくらいであることが分かる。感覚的には伊豆半島を含まない静岡県くらいの広さであろう。60キロ四方のガリラヤ地方だけでも大変な移動量である。当時の町と村の区別はよくわからない。ただイメージ的には「町」は都会で比較的金銭に余裕のある人が住み、村は農業や漁業が主体のイメージである。



 つまり主イエスと弟子たちはあらゆる業種の人たちに福音を述べ伝えたのである。環境に関わらず、主イエスの眼には病気や患いに悩む人たちが至る所に存在したのである。そして主イエスは彼らの求めに応じられて癒しの業を行われた。



 36節には「群衆」とあるがこれは村に住む人たちだけの事ではないはずである。主イエスに会いに来た人たちを「群衆」と呼ぶのであれば、それは「町や村」から来た人たちであろう。マタイは彼らを「飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれている」と表現する。「群衆」は羊ではあるが「飼い主」つまり神を見失っている。主イエスが「深く憐れまれた」のはその点である。ここから新しい形での主イエスの伝道が始まる。弟子たちが何のために集められ、訓練を受け派遣されたのかを私たちはこれから知るのである。
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 2022年3月13日 
「手を伸ばして」加藤誠牧師
マタイによる福音書9章18−26節



 ほぼ同時に主イエスに助けを求める人が二人登場する。二人とも当時の常識から言えば(多分今日でさえ)非常識と言える願いと行動を取った。「指導者」とあるので社会的地位のある人物であろう。しかし地位も金銭も「死」の力には抗えない。「たった今死にました」という言葉は衝撃である。私がこの父親の立場であれば、悲しみに打ちひしがれるか葬儀の手配が頭をよぎるかであろう。



 しかし彼は希望を捨てなかった。どのような経緯で主イエスの事を知っていたのかは分からない。恐らくは娘が死を迎える前に何とかして主イエスに会いたかったのではないだろうか。彼の家族は彼が主イエスに会いに行くのを止めなかったのだろうか?「おいでになって手を置いてやってください。そうすれば・・・」と彼は言う。



 病で苦しむ婦人の行動も、当時の律法では許されるものではない。後ろからそっと服に触れた女性に主イエスは目線を合わせる。彼女は言葉を発していない。しかしその切実な思いは主イエスに確かに伝わった。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」との主イエスの言葉をいただいて彼女はいやされる。亡くなっていた娘も主イエスに手を取られて再び命が与えられる。



 二人とも見つめていたのは主イエスであり主イエスの言葉である。主イエスを見つめることには私たちを主イエスに対する信仰を力づける作用があるに違いない。
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 2022年3月6日 
「新しい革袋に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書9章14−17節



 古いものを新しいものに変える。古いやり方を新しいやり方に変えるということは、そこに緊張感や摩擦を生みだしやすく、結構難しいことのように思います。今日の箇所も、古いもの(律法主義)と新しいもの(主イエスの教え)がぶつかっている場面と言えると思います。



 新しい布切れというのは、洗った時伸び縮みする力が大変強いのです。ですから新しい布切れを古い服に縫い付けると、古い服が破れてしまうということがあります。また新しいぶどう酒というのは発酵する勢いが強いものです。ですから新しいぶどう酒を古い革袋に入れると、内側にガスがたまって破れてしまうということが起こります。



 主イエスはこの譬えを通して、新しいぶどう酒は新しい革袋へ入れるものだ、とお話されました。なかなか古いものから離れられない、かたくななところのある私たちに、新しい心、柔らかい心で主イエスの教え、福音を受けとめるようにと招いておられます。



 新しいぶどう酒に、革袋を破ってしまうほどの力があるように、主イエスの教え、み言葉には力があります。わたしたちを新しく造り変え、またどんな困難な状況下においてもわたしたちを生かし、支え続ける力です。



 コロナ禍が続き、なかなか先が見通せない状況に置かれています。また、ウクライナで始まってしまった戦争に、わたしたちはただ、人間の愚かさと弱さを見せつけられています。困難な日々が続きますが、今も生きてはたらいておられる主を仰ぎ、祈りつつ歩ませていただきたいと願います。
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