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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年4月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2022年4月24日 
「恐れるな」加藤豊子牧師
マタイによる福音書28章26−31節



 「恐れるな」という主イエスの言葉が3回記されています。主イエスは弟子たちを伝道の働きへ送り出す際に、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と語られました。厳しい迫害に直面することになるかもしれない弟子たちに対し、「人々を恐れてはならない」「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と励ましておられます。



 「恐れるな」と言われても、わたしたちは恐ろしいと感じるもの、実に多くの恐ろしいものに囲まれているように思います。様々なことに恐れ、不安を抱くわたしたちに対し、神様がいかにわたしたち人間のことを大切に思い、配慮してくださっているのかということが29節以下に記されています。

 「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だがその一羽さえ、あなた方の父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛一本残らず数えられている。だから恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(29−31節)



 当時雀は、貧しい人々のための食用として、大変安く売られていました。そんな雀でさえ、父なる神の許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたは、雀よりもはるかにまさっている存在であり、神様に大切にされているではないか。髪の毛一本残らず数えられている、という言葉が示すように、神様は誰よりもわたしたち一人一人のことを知り、また配慮してくださるお方ではないか。恐れと不安に押しつぶされそうになるわたしたちへ、励ましの言葉が与えられています。
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 2022年4月17日 
「復活の主の派遣」加藤誠牧師
マタイによる福音書28章16−20節



 インドのケララ州に使徒の一人トマスが上陸したのは紀元52年頃と考えられている。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と復活の主イエスの宣教命令を受けた使徒たちの足跡を聖書でたどることは難しい。教会の記録でたどることも困難であるが、トマスに関しては実際にインドでトマス派の教会が現在も数多くあるので、どのように宣教したのかは残されている。私が10年近く前に訪れたのは、チェンナイにあるトマスが殉教したとされる教会である。数百名を楽に収容できる会堂の両サイドに、パノラマ形式でトマスがインドに上陸してから殉教するまでが目で追えるようになっていた。



 トマスといえば、他の弟子たちが復活の主にお会いした時には不在で、主の復活を「疑った」かのような表現を福音書で見る。「疑い深いトマス」として知られる人物でもある。17節で「しかし疑う者もいた。」という表現でトマスを連想したとしても不思議ではない。主の復活からトマスのインド行きまでには20年近い年月が過ぎており、その間トマスが何をしていたのかは十分に調べてはいないが、不明な部分が多いと思う。一つ言えるのはおよそ2000年前のトマスが伝えた信仰に生きる人たちが、今もたくさんいることである。日曜は別の教会で説教したが、依頼を受けたのが土曜の深夜であった。9時から礼拝が始まったが、賛美と証の連続で説教が始まったのが11時であった。「熱」のある礼拝であった。



 復活の主の宣教命令に私たちの教会も生かされている。そこには教会のみが伝えることのできる命があることを覚えたい。
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 2022年4月10日 
「賢く、素直に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書10章16−23節



 主イエスは12人の弟子たちを選ばれ、彼らを派遣されました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も2枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない…」とあるように、かなり厳しい宣教の訓練だったことがわかります。



 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(16節)

 狼の群れの中に、弱い無防備な羊が放り込まれたら、ひとたまりもありません。そのような厳しい状況、迫害という苦難が弟子たちを待ち受けているということが具体的に語られています。



 「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(16節)

 厳しい苦難の道へと歩みだそうとしている弟子たちに向かって語られた、主イエスの教えです。蛇は知恵の象徴であり、鳩は純真、柔和の象徴です。



 キリスト教の歴史は迫害の歴史であると言えます。「一つの町で迫害されたときは、他の町に逃げて行きなさい。」(23節)とありますが、まさに福音は、追われて逃げて、散らされることによって広まったとも言えます。現代に生きる私たちは、鞭打たれ引きずり出され…ということはないかもしれません。しかし無関心、拒絶というものに直面し、厳しい環境であることには変わりありません。

 「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(22節)

 主イエスの約束、励ましの言葉を心に留めたいと思います。
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 2022年4月3日 
「主の派遣」加藤誠牧師
マタイによる福音書10章5−15節



 先週の箇所では主イエスは12弟子をお選びになったことが記されていた。それに続いて今度は弟子たちが訓練のために派遣されたことが記されている。12弟子が主イエスに従ってからこのように派遣されるまで、一体どれくらいの時が経っていたのかは定かではない。マルコとルカを読むと二人一組で派遣された。



 弟子たちは必死だったであろう。財布を持たず着の身着のままの状態を命じられる。「病人をいやし」「悪霊を追い払う」権威を与えられたものの、主イエス抜きでそのようなことを行うのは初めてだったに相違ない。知恵も絞らねばならなかった。「ふさわしい人は誰かをよく調べねば」ならなかったからである。二人でディスカッションし、支え合い、譲り合う訓練でもあった。



 金曜日に仕事の引継ぎで教団に行くと、カトリック東京教区職員の赤井氏が来局していた。彼には昨年の東京オリンピックでカトリック側をまとめていただいた。彼はカテキスタとしての教育も受け、信徒でありながらも伝道の第一線で活躍する。彼が聖書や教理を教えるための訓練を受けた時の指導司祭は、彼が聖書の知識や字句の説明が出来るだけでは満足しなかったそうである。主イエスが自分をどのように導き、「今」どのように主イエスに従おうとしているのかという生きた信仰を語ることが大切なのだと教えられたそうである。



 派遣された弟子たちも主イエスの姿を見ることは出来なくても、生きた信仰を学ぶ訓練を受けたのである。
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