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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年6月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2022年6月26日 
「主の家族」加藤誠牧師
マタイによる福音書12章46−50節



 主イエスに兄弟が何人いて、この時何人がマリアと同行していたのかは分からない。ヨセフは恐らくすでに他界しており、主イエスは長男としてヨセフ家を経済的に支えて来たのだろう。マルコ3章のベルゼブル論争の所に「身内が主イエスが気が変になったので取り押さえに来た」との一文がある。マタイで母や兄弟が家の外に立って人づてで主イエスを呼ばせたのも、そのような事情があったからであろう。



 家族が家の外で待っていることを聞いた主イエスの反応は、一見すると冷たく感じられる。弟子たちを指して「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」「だれでもわたしの天の父の御心を行う人が」家族だと言われたことは恐らく外の家族にも伝わったであろう。 家の中に弟子たちの他に何人いたのかは分からないが「群衆」という表現がある以上、かなりの人数であったと思われる。その場限りの人もいたであろうから、弟子を家族と呼ぶ主イエスの言葉は、ある意味強烈なメッセージとなったであろう。



 主イエスの十字架を前にしてほとんどの弟子は逃げ去った。母マリアのその後を福音書内で見つけるのは少々忍耐がいる。確かヨハネ福音書の19章にマリアは登場する。死の直前、主イエスは母マリアの行く末を愛する弟子に託した。つまりいつからかは分からないが、母マリア主イエスと行動を共にし、その活動を支え、十字架の死を一番間近で見届けたのである。その胸中は察するに余りあるが、ここに主の家族としてのマリアの信仰と証を見る。
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 2022年6月19日 
「しるしを求めて」加藤豊子牧師
マタイによる福音書12章38−42節



 何人かの律法学者とファリサイ派の人々が、主イエスに対し「先生、しるしを見せてください。」と迫っています。ここに至るまで、主イエスと彼らの激しい対立が続いてきました。彼らは、どのようにしてイエスを殺そうかと相談するようになり、主イエスも、あなたたちは蝮の子らだというように、彼らを厳しく批判しました。律法学者、ファリサイ派の人々というのは、人々から先生と呼ばれ、尊敬を受けることが当然と思うような立場にありました。彼らは殺したいと思うほどの憎しみを抱きながら、主イエスにあなたが神の子であるしるし、証拠を示してくださいと詰め寄っています。



 「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

 いつの時代も、ファリサイ派の人々がイエスを拒絶した時代も、そして私たちが生きている現代も、よこしまで神に背いている時代と言えるのではないでしょうか。頑なな心で、なかなか神の言葉を受け入れることができない。そしていつの時代も人々は「しるし」目で見てわかるものを求めるのです。



 ニネベの人々は遠い外国に住む、いわば神様から遠い所で生活していましたが、ヨナの言葉を聞いて悔い改めて神に立ち返ることが出来ました。それに比べて律法学者、ファリサイ派の人々は、、神様の一番近くにいたはずなのに、その心は頑なで、主イエスを受け入れることができませんでした。信じない心から信じる心への変化、その背後には、聖霊なる神の働きがあることを覚えたいと思います。
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 2022年6月12日 
「ベルゼブル論争」加藤誠牧師
マタイによる福音書12章22−28節



 32節の「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも許されることがない。」との主イエスの言葉は私には衝撃的であった。主イエスの十字架はあらゆる人の罪を許すものではないのか?という素朴な疑問が湧いてくる。そして又主イエスの言葉が微妙なのである。



 状況はかなり深刻である。14節ではファリサイ派の人々により主イエスの殺害の相談がされている。マルコの並行記事を読むと、登場する律法学者は「エルサレムから下って来た」と紹介されている。つまりそんじょそこらの律法学者ではなく、本部から相当な地位にある律法学者が主イエスをベルゼブル呼ばわりしているのである。つまり死刑宣告をしに来たようなものである。



 その状況を踏まえると主イエスのベルゼブルに関する反論は極めて常識的であるが、30節以下の言葉は反論や説明と言うよりはむしろ主イエスの側からの律法学者たちに対する「宣告」である。信仰の待ったなしの決断を迫っているように私には思える。つまり主イエスを神から遣わされたメシアと信じるか、それとも悪霊の頭に支配されている者として信じるかの二者択一である。神の子イエス・キリストとすればベルゼブル呼ばわりされることは神に対する冒涜に他ならない。なぜならば「神の霊で」という表現を主イエスはすでに使っている。



 ベルゼブルには「家の主人」という意味があると言われている。私の心の家の主人は誰だろうか?とこの箇所は問いかけている。
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 2022年6月5日 
「力を受けて」加藤豊子牧師
使徒言行録1章3−8節


 「あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また。地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(1:8)

 使徒言行録を一言で表すなら、上記の聖句であるという説教を聞いたことがあります。使徒言行録にはペトロやパウロ、多くの宣教者が登場します。様々な迫害を受け、困難な状況に陥ってもひるむことなく、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。彼らが使徒言行録の主人公のように思いますが、実は人ではなく、聖霊なる神ご自身が、この宣教の働きの主人公ということができるのではないでしょうか。



 聖霊の働きがなければ、誰もイエスを主であると告白することはできないのです。聖霊の力がなければ、わたしたちはキリストの証人となることはできません。聖霊は信じる者の内に住んでくださり、わたしたちをキリストの証人に相応しい者へと造り変えてくださいます。また聖霊はわたしたちの慰め主であり、み言葉読むとき、わたしたちを真理へ導いてくださいます。



 信徒の友に、伊豆大島での伝道の歴史が紹介されていました。今から130年ほど前、北米スカンジナビアン・アライアンス・ミッションという宣教団体の派遣宣教師によって大島での伝道が始められました。使徒言行録と同じように、暴漢に襲われたり、崖から突き落とされそうになったりということもあったそうです。しかし、聖霊の力に押し出されるようにして宣教師によって福音の種が蒔かれ、やがて教会が誕生します。聖霊の豊かな働きを、わたしたちも祈り求めたいと思います。
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