←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年7月 3日 10日 17日 24日 31日  目次に戻る
 2022年7月31日 
「主イエスの祝福」加藤豊子牧師
マタイによる福音書14章13−21節



 「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」(13節)

 主イエスは、洗礼者ヨハネの死を、ヨハネの弟子たちから聞きました。その悲惨な死の有様は、主イエスに大きな痛みと深い悲しみを与えたことと想像されます。そしてまた、ご自分に近づいてくる十字架への歩み、十字架上の死を思われたのではないでしょうか。人里離れた所で一人になって、神様に祈り、向き合うとき持ちたいと切望されたのだと思います。しかし群衆は、それを許しませんでした。イエス様の後を追って、歩いて追いかけたのです。



 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ,その中の病人をいやされた。」(14節)「深く憐れみ」という言葉は強烈な心情の動きを表す言葉です。激しく揺さぶられるような思い、また痛みを覚えながら人々を憐れまれたのです。主イエスはパン5つと魚2匹を祝福して、人々に分け与えられました。すべての人が食べて満腹したという不思議なことが起こりました。それは、主イエスの深い憐みゆえの業でありました。



 弟子たちは「5つのパンと2匹の魚しかありません」と言いました。100%、いえ200%無理です、不可能ですという状況。しかし主イエスは「それをここに持って来なさい」と言われるのです。わたしたちも、深い憐み故に、人の思いを越えて思いがけない業を行ってくださる主イエスに委ね、祈りたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2022年7月24日 
「故郷にて」加藤誠牧師
マタイによる福音書13章53−58節



 主イエスが故郷ナザレに戻られたのは、12章46節からの出来事が原因していると思われる。地上に残された時間は余りないと思われたのではないだろうか。



 キリスト教の信仰は主イエスをどのような存在として信じるかが全てと言っても良い。日本基督教団信仰告白では主イエス・キリストは、父なる神を啓示する存在、子なる神、人と成った存在と告白している。つまり人と成った神の子である。これを完全に説明出来る人はいない。三位一体の神という存在が、人間の理解を遥かに超えた存在だからであり、私たちは聖書の言葉と見えざる聖霊の助けなしにはイエス・キリストを主と告白出来ない。



 ナザレの人たちは幼少からの主イエスを知っていたがために、会堂での主イエスの教えに驚きを隠せない。「この人は大工の息子ではないか。」との言葉に、彼らが主イエスをどのように捉えていたかが集約される。「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」で段落が締めくくられる。



 二つの事を考えさせられる。ナザレの状況は今の日本の状況と変わらない。イエスを主と信じる人は人口の1パーセントに満たない。教会の戦いは不信仰との戦いでもあろう。第二は帰郷した目的は家族との再会であったと思うが、その結論が語られていないのは不自然でもある。ただ母マリアが主の十字架に最後まで寄り添ったことが、ヨハネで語られていることを通して私たちには知らされる。
目次に戻るページトップ
 2022年7月17日 
「貴い宝」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章44−46節



 短い二つのたとえ話が記されています。どちらも「天の国」が「畑に隠された宝」また「高価な真珠」に譬えられています。旧約聖書、箴言では、知恵を得るということが、財宝にまさる貴い宝であると記されています。「いかに幸いなことか 知恵に到達した人、英知を獲得した人は。知恵によって得るものは銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる。真珠よりも貴く、どんな財宝も比べることはできない。」(箴言3:13)「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)ともありますので、真の神を知るという知恵こそ、尊い宝であることが示されているのではないでしょうか。



 マタイの「天の国」のたとえで示されているのは、イエス・キリストを通して与えられる救いの恵みは、私たちにとっては隠された宝、高価な真珠を見つけたのと同様に、たとえようもなく貴い価値のあるものなのだということです。この二つの譬えに共通しているのは、その見つけた宝物に最高の価値があったこと、すべてを売り払ってでも手に入れる価値があったこと、そしてそれを見つけた人に、大きな喜びが与えられたことです。



 使徒パウロは、かつては激しいキリスト教の迫害者であり、また誰もが羨むような社会的地位や名誉を手にしていました。しかし、最高の価値ある宝、イエス・キリストの救いを得た喜びを次のように語っています。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。」(フィリピ3:7口語訳)私たちも、この恵みに生かされています。
目次に戻るページトップ
 2022年7月10日 
「からし種とパン種」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章31−33節



 からし種というのは、「どんな種よりも小さい…」とあるように、ゴマ粒よりも小さな種です。「クロカラシ」と言われる種類の種で、黄色い細長い花が咲き、成長すると確かに人の背丈を遥かに超えて3,4メートルの高さにまで大きくなり、まさに空の鳥が枝にとまれるほどの木になります。小さな種に秘められている成長する力に驚かされます。



 パン種もまた、ごくわずかなものを混ぜることによって、生地全体が柔らかく、大きく膨らみます。からし種の持っている力が外に向かって高く、大きくなる力とするならば、パン種の持っている力というのは、内側に働く力、溶け込むことによって中から全体に大きな影響を与える力と言えるのではないでしょうか。



 聖書は、イエス・キリストがこの世に来てくださったということによって天の国、すなわち神の支配というものは始まっているのだと語っています。そして、その始まりはからし種のように小さなものだけれども、やがて大きく成長する力を内に秘めているのです。



 パン種は時間をかけて熟成することによって全体に変化を与えます。私たちの心に蒔かれたみ言葉の種も、時間をかけてその人をつくり変えていくのです。また、キリスト者は社会全体の中でわずかな者たちかもしれません。しかし、そのわずかなパン種のような存在が全体に影響を与える、意味ある働きを担うのではないでしょうか。

 教会も小さな存在に見えるかもしれません、しかし、この地上に天の国を指し示す大切な使命を与えられているのです。
目次に戻るページトップ
 2022年7月3日 
「良い地に蒔かれ」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章1−9節



 「種を蒔く人」という、主イエスが話された大変有名なたとえ話です。そして、イエス様ご自身が、このたとえの説明をされています。「種」とは何を指しているのか…。それは「御国の言葉」、すなわち神の言葉であると語られています。そしてその種が、道端、石だらけの所、茨の中、良い土地と様々な所に蒔かれたわけですが、それらはみ言葉を聞いた人の心を表しています。



 「あなたは自分がどの土地に当てはまると思いますか?」と問われたら、どう答えるでしょうか。さすがに、道端のような、み言葉を全く受け付けない、拒否する心ではないと思うかもしれません。でも、「わたしは良い土地です。ですから何十倍もの実を結ぶことができます」と自信を持って答えることもできないのではないでしょうか。信仰の故に迫害に遭うようなことがあったらどうでしょうか。また日々私たちには様々な心配ごとや思い煩いがあり、また誘惑も多くあります。それらに心を奪われて、み言葉を一番大切なものとして聞けないこともあるかもしれません。そう思うと、私たちは石だらけの土地だったり茨の地だったりすることもあるのでは、と思わされます。



 主イエスはここで、私たちを「あなたは道端」「あなたは石地」…とそのように指摘しておられるわけではありません。種を蒔く人は、また育てる人でもあるのです。私たちの心は頑なで、硬い土の塊だらけかもしれません。自分で自分を砕くことは難しいですが、神の言葉は私たちの傲慢、頑なさを砕き、豊かな実りをもたらす良い地へと変えてくださるのです。「耳のある者は聞きなさい」(9節)と主は呼びかけておられます。聞くことから信仰の歩みは始まるのです。
目次に戻るページトップ