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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年8月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2022年8月21日 
「憐みを求めて」加藤豊子牧師
マタイによる福音書15章21−28節



 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と一人の女性が主イエスから褒められています。口語訳聖書では「あなたの信仰は見上げたものである。」とあります。主イエスからそのように評価された信仰とは、どのようなものだったのでしょう。



 主イエスはイスラエルの地を離れ、地中海に面したフェニキア人の町、異邦人の住む地域に行かれました。十字架での苦難が迫ってきている時であり、またファリサイ派の人々や律法学者たちとの衝突を避けるためにも、ひそかにイスラエルの地を離れられたと思われます。



 そこに、一人のカナンの女性が主イエスの前に飛び出して来て「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫びました。驚くべきことにこの女性は「主よ、ダビデの子よ」とイエスを呼びました。外国人でありながら、聖書に示される唯一の神を信じ、救い主を待ち望んでいたことがわかります。



 「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」(23節)ここで私たちは、主イエスのこの女性に対する冷たいとも思える拒絶の姿勢に戸惑いを覚えます。わたしは、失われた羊であるユダヤ人のところに先ず遣わされたのだと言われ、「子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」(26節)と言われました。神の恵みは先ず子どもであるユダヤ人たちに与えられるというわけです。しかし彼女はひるむことなく、「主よごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです。」と答えたのです。



 カナンの女性は、主イエスの沈黙に出会っても、また自分を拒絶するような言葉に出会っても、どこまでも神を神とし、また神の憐み深さに信頼しました。神の前に身を低くし、信じて憐みを祈り求める姿に教えられます。
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 2022年8月14日 
「人を汚すもの」加藤豊子牧師
マタイによる福音書15章10−20節



 エルサレムからファリサイ派の人々、律法学者たちが来て主イエスに言いました。

 「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません」(1節)

 昔の人の言い伝えとは、口伝律法のことです。律法学者たちはその戒めを解釈して、当時の実際の生活に合わせて沢山の決まり事を作りました。食事の前に手を洗う、というのも昔の人の言い伝えにある決まり事でした。この手洗いは、衛生上のことと言うよりも、宗教的な意味での汚れを清めるために行われました。



 レビ記11章には、清いもの、汚れたものについての規定が細かく記されています。人に関しても、律法を守る人は正しく清い、しかし律法を守らない人は神様から遠く離れていて汚れている、とみなされました。そして手を洗わないで食事をすると、汚れが口から入って自分を汚してしまうことになるので、食事の前には必ず手を洗わなければならなったのです。手の洗い方、使う水の量まで決まっていました。



 イエス様は「汚れ」についてこう言われました。「口に入るものは人を汚さず、口から出てくるものが人を汚すのである。」(11節)「口から出てくるもの」とは何でしょうか。口から出てくるものは心から出てくるのだ、と主イエスは言われます。汚れは私たちの心の中にあるという厳しい指摘です。悪意、悪口…誰の心にもあるものではないでしょうか。



 殺意などとは無縁だと思うかもしれませんが、激しい憎しみや、人には知られたくない様々な思いを私たちは抱えています。そうした汚れは、水で洗い流すことはできません、自分で清めることも、自分の心をコントロールすることも難しいのです。主イエス・キリストはこのような私たちのために、十字架に架かってくださったのです。
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 2022年8月7日 
「安心しなさい」加藤誠牧師
マタイによる福音書14章22−33節



 例によって聖書は私が聞きたいことにはヒントすらくれない。聞きたいこととは船の中での弟子たちの会話である。弟子たちは主イエスに強いて船に乗せられ、自分たちだけで向こう岸に行くように指示されたのである。その理由をどこまで主イエスが弟子たちに話されたのかは分からない。そして彼らは逆風と波に悩まされ夜明けまで立ち往生していたのである。恐らく疲労困憊であったろう。



 私ならどうするか?5割の確率で引き返すことを提案したと思う。逆風も背を向ければ順風となるかも知れない。だからこそ船の中での弟子たちの会話が知りたいのである。少々下世話であっても。兎にも角にも主イエスの指示を守ろうとしていた弟子たちは偉いと思う。



 主イエスは祈るため一人山に登られた。洗礼者ヨハネが殺害された事がその理由であろう。父なる神との祈りによる交わりを誰よりも必要とされていたと思う。その祈りの中には当然弟子たちのことも入っていた。だからこそ彼らの危機に湖の上を歩いて近づかれたのである。



 弟子たちは主イエスを「幽霊」と見間違えた。しかしそのことを主イエスは咎めない。彼の第一声は「安心しなさい。」である。疲労困憊し恐怖に怯える弟子たちに主イエスの「安心しなさい。」という語りかけはどう響いたのであろう。ペトロの反応も極端に思えるが、水の上を歩きつつも強い風が怖くなり沈みかける。沈みかけるペトロを主イエスは手を伸ばして捕まえるのである。主イエスを信じつつも強い逆風が怖くなる現実がある。しかし私たちは「安心しなさい。」との主イエスの言葉を聞くのである。
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