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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年9月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2022年9月25日
「自分の十字架」加藤誠牧師
マタイによる福音書16章21−28節



 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(24節)

 主イエスがこのように厳しい言葉を言われたのは、ご自分がエルサレムへ行き、そして十字架に架かるということがはっきりしていたからである。



 大切なのは「神様の御用のために」ということではないだろうか。自分を捨てる、ということをひょっとするとわたしたちは、ものすごくおおごとのように捉えてしまうかもしれない。でもここで主イエスが言われていることは、あなたのやりたいこと、あなたが良いと思うことがあるかもしれない、でもそこに神様が別の道を示されたのならば、自分を捨て神様が示される方向に行ってみませんか、という招きの言葉である。



 イエス様に従うということは、イエス様がなされたように、神様が良いと思われる方向に従っていくということである。ここには、わたしたちの生き方を考える上での、非常に大切な教えが示されている。そしてイエス様に従うということが、イエス様の命につながっていくのである。



 わたしたちには、色々な局面、決断をしなければならない場面と言うものがある。場合によっては喜んでできない決断もあるかもしれない。しかしその決断に、神様の御心があると思えるならば、それこそが、自分の十字架を背負って従うことになるのではないだろうか。
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 2022年9月18日
「この岩の上に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書16章13−20節



 イエス様は弟子たちに「人々は人の子のことを何者だと言っているか」と問われました。当時、主イエスの周りにいる人々の共通の疑問だったのではないでしょうか。不思議な業を行い、病をいやし、律法学者たちとは違う力ある言葉を語られる。洗礼者ヨハネ、或いは預言者エリヤの生まれ変わりか…と思われていも不思議ではありません。



 イエス様はさらに弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」この問いに対し、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えます。あなたはメシア、神に選ばれ、油注がれた方、待ち望んでいた救い主です。ペトロがそう告白できたのは、主イエスの一番近くにいてその働きを目の当たりにしてきたからかもしれませんが、やはりそこには、人の思いを越えた神の働き、導きがあったのだと思わされます。ペトロのこの信仰告白は、数百年を経て今私たちが毎週礼拝の中で告白する使徒信条の言葉へとつながっていきます。



 紀元4世紀頃の洗礼式では、洗礼式の前に決意表明がなされることがあったとのことです。西に向かって、私は今後悪と決別する、神ならぬものを神とはしない、と言うそうです、しかし、決意表明は信仰告白とは違います。わたしたちにとって、決意表明を生涯維持し続けることは難しいことです。信仰告白とは、あなたはキリストです、と告白することです。わたしたちは弱く、時に信仰が揺らぐことがあるかもしれません。しかし、どのようなことがあってもイエス・キリストは変わることがない救い主であり、また私たちの信仰を支えてくださるお方であります。
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 2022年9月11日 
「パン種」加藤誠牧師
マタイによる福音書16章5−12節



 主イエスと常時行動を共にしていたのは12弟子と考えてよいであろうが、旅の多かった主イエス一行の宿泊や食事の準備の苦労は大変なものであったろうと推測される。15章の4千人に食事を与える奇跡から今日のこの箇所までどれほどの日数が経過していたのかは分からないが、(船つながりなら同日になるが)弟子たちはパンを買うことを失念していた。そしてそのことを主イエスに報告したのであろう。



主イエスの反応は予想外であった。「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい。」と言われたことを弟子たちは誤解した。主イエスは弟子たちのパンを買い忘れた失敗をとがめたのではなく、パンと関連させて彼らの「教え」に気を付けるよう促したのである。



ここでは彼らの「教え」について論じるスペースはない。ただここ数か月騒がせている旧統一協会の「教え」については考えさせられる。つまり人は「教え」の影響を受けやすいのである。もう少し過激な表現を用いれば「人は洗脳されやすい」のである。カルトの定義は時代によって変わりつつあるが、「人から人権と自由意思を奪う組織」と定義すれば、民衆を扇動し主イエスを十字架にかけるために平気で偽証する彼らの存在はカルトに見える。



「教え」が形骸化し、信仰に人の欲や憎悪が影響を与えるとすれば、それは主イエスの言うところの「パン種」なのではないかと思う。その悪しきパン種から解放されるのは主イエスの十字架と復活に示された神の愛を信じるほかないのではないだろうか。
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 2022年9月4日 
「時代のしるし」加藤豊子牧師
マタイによる福音書16章1−4節



 「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。」(1節)

 「しるしを見せてほしい」というのは、証拠を見せてください、ということです。イエス様が本当に、神から遣わされたメシアであるということを証明できるような証拠を示してほしいというわけです。主イエスとの対立は深まり、彼らは主イエスに対し、殺意を抱くまでになっていました。おそらく何を見ても、何を聞いても、主イエスを認めることはなかっただろうと思います。



 ファリサイ派とサドカイ派の人々が一緒に質問をしています。当時ユダヤ教を代表するこの2つのグループは、律法に対する考え方、ローマへの対応など様々な立場の違いがあり、対立していました。しかしイエスという共通の敵を倒すために、日頃は仲の悪い者同士が結託しています。いつの時代にも見られる、人間の姿ではないでしょうか。



 あなたたちは、空模様を見分けることができるにも関わらず、時代のしるしを見ることができない、と言われています。ユダヤの宗教家達は神の言葉に精通し、神に仕える者であるはずなのに、イエス様が来られたことによって、神の救いの業が始まっているという時代のしるしを見ることができません。



 主イエスは、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない、と言われました。人々は、わかりやすいしるし、自分の希望を叶えてくれるしるしを求めます。しかし、イエス様がわたしたちに与えてくださった唯一のしるしは、ヨナのしるし、即ちイエス・キリストの十字架と復活の出来事なのです。いつの時代も、そのしるしが信じるものを生かし、支えるのです。
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