←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年10月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2022年10月30日 
「キリストの教会」加藤豊子牧師
マタイによる福音書18章15−20節



 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(20節)

 二人または三人が、わたしの名によって、つまりイエス・キリストの名によって集まるところ…これはまさに、教会を表している言葉です。教会とは、まさにこういうところなのだ、ということが示されています。たとえ二人三人という少ない人達であっても、イエスの名によって集まっているならば、そこにイエス様はおられるという約束の言葉です。教会は建物でもなく、人数でもなく、この主イエスの約束の言葉の上に建てられてきました。



 18章全体を通して示されている主イエスの思いは「小さな一人を大切に」ということです。迷い出た一匹の羊のことが語られていました。そして「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」とあります。



 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」(15節)

 教会の中で誰かが罪を犯し、神から離れようとしているなら、その人も迷いでた一匹の羊であり、その一人が失われることを神は望んでおられないのです。その一人を失わないために、先ず二人だけで、さらには二三人でその人に忠告して執り成すことが勧められています。この忠告の勧めの言葉の根底に流れているのは、一人も滅びることを望まないという神の愛、小さな一人を大切に追い求める神のみ心です。
目次に戻るページトップ
 2022年10月23日 
「小さな者」加藤誠牧師
マタイによる福音書18章10−14節



 この話は18章1節からの続きである。1節から5節までの対象は子どもである。6節から「小さな者」という表現が出て来るが、これは子供も入るであろうが、むしろ信仰的な未熟者を指すであろう。弟子たちは「偉さ」「偉大さ」に取りつかれていた。彼らが「小さな者」をつまずかせる存在にならないように、主イエスは「火の地獄」などという強烈な表現を用いたのであろうが、弟子たちにしてみれば肝が冷えるような主の言葉ではなかっただろうか。



 私はかつて二度ほど教会を離れようとした。最初の時はまだ大学生であったが、その理由はどんなに頑張って礼拝、伝道集会、祈祷会、早天祈祷会に出席して祈っても、ちっとも自分が「良いクリスチャン」にならないと失望したからである。実は両親も私が教会に戻ることを諦めていた。しかし母を教会に誘ったご婦人だけは諦めずに祈り続けた。このご婦人に説得されて私は教会に戻った。何故私の居所がこのご婦人に知られたのかは今もって不明である。



 「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」と主は言われる。99匹について行けない1匹の羊を執り成す為にも天使がいるのである。



 私たちは誰かをつまづかせる存在であろうか?自信をもってノーと言えるだろうか?主の深い愛を信じ後に従うのみである。
目次に戻るページトップ
 2022年10月9日 
「からし種と信仰」加藤豊子牧師
マタイによる福音書17章14−20節



 先週のお話では、イエス様は3人の弟子たちを連れて、高い山に上られました。そして弟子たちの目の前で主イエスの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったと、この世のものとは思えないような不思議な場面が語られていました。神様の栄光、天の国の輝きを示すような場面です。



 そして今日のところでは、「一同が群衆のところへ行くと」(14節)とあります。イエス様と弟子たちが山の上から下りて来られたわけです。するとそこにあるのは、天の輝きとは真逆の厳しい現実…悩みと苦しみに満ちている私たちの現実の世界を表しているような場面です。主イエスはご自分の口で初めて十字架と復活の予告をされた後、山の上で神の栄光に包まれました。そしてまた、苦しみに満ちているこの世界に下りてこられ、十字架への道を歩んで行かれたのです。



 「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、その通りになる。」(20節)

 からし種という、ゴマ粒よりも小さなものに信仰が譬えられています。ここで大切なのは、わたしたちの信仰の小ささではなく、その小さな種に宿っている、とてつもなく大きな神の力なのではないでしょうか。



 わたしたちがどんなに弱く、またその信仰が薄い、小さいものであっても、神様のみ心ならば、人の思いを越えた大きな業が行われるのです。あの種に秘められている力はすごいものです。2.3mを越える木に育ち、鳥が来て巣を作るようになるのです。わたしたちはここで、自分の小ささ、弱さに目を向けるのではなく、もっと神の大きさ、その力に目を向けるように招かれています。
目次に戻るページトップ
 2022年10月2日 
「主イエスの輝き」加藤誠
マタイによる福音書17章1−8節



 何回か記したことであるが、キリスト教信仰の中心は2000年前にユダヤに生き、十字架にかけられて死んだイエスという人物をどのように信じるかにかかっている。16章ではペトロが弟子たちを代表して「あなたはメシア、生ける神の子です。」と告白している。しかしその告白をどれだけ深く理解していたかと言えば、ペトロはその後主の十字架と復活を否定して「サタン、引き下がれ」とまで言われてしまう。ペトロや弟子たちの心中は量りがたい。



 六日間にどのような会話がなされたのかは分からないが、主イエスはペトロたち3人のみ連れて高い山に登られる。そこで弟子たちに見せられたのは主イエスの変貌であった。「服は光のように白くなった。」とあるが、「白い衣」はヨハネ福音書や使徒言行録では「御使い」が着る衣であり、黙示録では主を信じて亡くなった人たちが着る衣として表現されている。すなわち主イエスが着るべき本来の衣が示されたと考えられる。



 モーセとエリヤは旧約を代表する人物である。勿論モーセは主イエスの時代より1200年は前の人物であり、エリヤはおよそ800年前の預言者である。律法はモーセを通して与えられたと信じられていた。エリヤは預言者の代表と考えられる。ルカによれば二人は主イエスとエルサレムでの最後について話し合っていたと記されている。



 なぜこの3人のみが連れて行かれ、モーセとエリヤに会うことが出来たのかは分からないが、十字架と復活の出来事は繰り返し学び、その意味を深める必要のあることを教えられる。
目次に戻るページトップ