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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年11月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2022年11月27日 
「約束の実現」加藤豊子
ルカによる福音書1章5−14節




 ルカによる福音書では、イエス・キリストの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生物語が語られています。洗礼者ヨハネの父ザカリヤは、アビヤ組の祭司であったと記されています。当時祭司はおよそ2万人ほどいたと言われ、24組に分かれていました。くじ引きで当番を担う順番が決められていて、丁度ザカリヤの属するアビヤ組に当番が回ってきました。さらにその組の中でくじを引いて、ザカリヤは神殿の一番奥に一人で入って、香をたいて祈りをささげるという、特別な任務を担うことになりました。




 そこに天使が現れ「恐れることはない。あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリザベトは男の子と産む…」と神の言葉を告げました。「あなたの願いは聞き入れられた」とありますが、一体ザカリヤがいつ祈った、願った祈りでしょうか。二人が若い頃は、子どもが与えられますようにと一生懸命祈ったに違いありません。5年10年と祈った…でも与えられなかったのです。




 いつしか二人も年をとり、そのように自分たちが祈っていたことさえも忘れていたのではないでしょうか。しかし、神は忘れておられませんでした。実は「ザカリヤ」という名前は「神は覚えたもう」という意味です。神様は、祈った者たちがたとえ忘れたとしても、ささげられた祈りを覚えていてくださるお方なのです。




 私たちは様々なことを願い、祈ります。しかし私たちの願いがすべて自分の願い通りに叶うわけではありません。神様のご計画の中で、時が満ちて答えが与えられる祈りがあり、また私たちの思いとは異なる答えが与えられることもあります。神は、私たちのすべての祈りを覚えていてくださり、また最善の道を備えてくださるお方であります。
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 2022年11月20日 
「ぶどう園のたとえ」加藤誠牧師
マタイによる福音書20章1−7節



 この「ぶどう園のたとえ」も前回の「一万タラントン」のたとえと同様に、私たちの常識とははるかにかけ離れた話であり、日常に適用することも不可能であろう。しかしながらこのたとえも「福音」の本質に深く関わるのである。



 常識的には一日十時間働いた者と一時間しか同じ質の仕事をした者の賃金が同じであって良いはずがない。しかしこの「たとえ」は19章から繋がっている。直前の話には金持ちの真面目な青年が登場する。彼と主イエスとのやりとりから弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか。」とつぶやく。人間の努力、資質、財産ではだれも天の国に入ることはできない。それが主イエスの答えである。しかし続けて「神には何でもできる」と言われた。そう言われたにも関わらずペトロは「何もかも捨てて従った」ので最大限の褒美を期待するのである。



 この主イエスとペトロのやりとりを前提に「ぶどう園のたとえ」を考えないと、福音の大切な部分を見落としてしまう。それは神の圧倒的な「気前の良さ」である。この圧倒的な気前の良さで、朝6時に雇われた者も夕方5時に雇われた者も天の国に入れていただけるのである。



 聖歌の中に「数えてみよ主の恵み」というフレーズがある。少なくとも私は救われるに値する人間だとは到底思えない。「圧倒的な神の気前の良さ」で救われたに過ぎない。この神の気前の良さに私たちの信仰生活も支えられているのではないだろうか。
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 2022年11月13日 
「欠けているもの」加藤豊子牧師
マタイによる福音書19章16−22節



 『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか.』(16節)

 一人の男が、イエス様に質問をしています。金持の青年とありますから、経済的に恵まれ、また幼い頃から律法を守って生きてきたという、大変真面目な人物だろうと想像されます。恵まれた環境にあるように思える青年にも悩み、不安があったわけです。



 この質問をよく見ると、この青年が大きな思い違いをしていたのがわかります。つまり彼は、何か善いことをすることによって、永遠の命を得ることができる、と思い違いをしているということです。



 「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」(21節)

 おそらく誰にもできないと思われるようなことを、主イエスは青年に求められました。彼は、一生懸命真面目に、何かを積み重ねるように戒めの一つ一つを守ってきたわけです。そして、自分はさらに何かをしなければならない、そして自分にはそれができると思っています。イエス様は、つまずいたことのないこの青年に、自分にも破れがあるということを気付かせようとされたのではないでしょうか。



 この出来事の前のところで、イエス様は子供たちを祝福され「天の国はこのような者たちのものである。」と言われました。ここでいう「子供のような者」というのは、力のない弱い存在を意味しています。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(18:3)と主は言われます。
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 2022年11月6日 
「赦しの射程」加藤誠牧師
マタイによる福音書18章21−35節



 21節からのテーマは「赦し」である。しかも「7の70倍」の赦しとか「1万タラントン(1兆円)」の赦しとか、とても私たちの現実とはかけ離れた数字である。これは人の限界を遥かに超えた「赦し」である。どちらかと言えば私の現実は神から「1万タラントン」赦していただいたのに、仲間が借りた「100万円」を許せないほうが近いのではないかと思う。



 なぜ王は彼を「憐れに思って赦し」たのであろう?いくら王でも1兆円の借金を「憐れみ」だけで赦していたら、国の経済は破綻する。このような考えは本筋から外れているのかも知れない。しかしついミステリー用語の「ホワイダニット」(事件の動機)という言葉が頭をよぎってしまう。



 通常、私たちは一兆円の借金はできない。世界には王政を引いている国もあるが、臣下が王に借金をする話は聞いたことがない。何故王はこの家来にあり得ないほどの額のお金を貸したのであろう?私が考え得る答えは「この家来に一兆円以上の価値がある」からである。仲間の100万円の借金を許さなかった事で牢に入れられた家来ではあるが、王はこの男に「一兆円以上の価値」をみていたのではないだろうか?



 なぜ神は私たちの罪を赦されるのか?その答えの一つがこの聖書の箇所にある。
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