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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2022年12月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2022年12月25日 
「ダビデの町」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章1−7節



 皇帝アウグストゥス、その治世を見れば間違いなく天才である。当時のギリシャ・ローマ社会で「神の子」と言えば皇帝アウグストゥスであった。住民登録はローマが支配する全ての地域で行われたと思われる。目的は税金の徴収とテロの予防であろう。同じ規格の都市の建設と道路の整備という公共事業に莫大な税金が必要であった。



 ナザレからベツレヘムまで100キロを超える旅に、身重のマリアを同行させるのは危険すぎよう。皇帝アウグストゥスがそこまで無慈悲な人口調査を命じたとは思えない。ヨセフ一人が行けばすむ話であろう。私たちの知るクリスマス物語を伝えるマタイとルカに、ヨセフとマリアは登場するが二人の家族は一切登場しない。普通であればマリアは実家に帰るか、ヨセフの両親が面倒を見るはずである。それが望めないから過酷なベツレヘム行になったのではないだろうか。



 岡山の田舎では山羊を飼っていた。ミルクといえば山羊のミルクであった。しかしそこで寝るのは余りに不潔であり、どんな親でも飼い葉桶に生まれたばかりの赤ん坊を寝かせたりはしない。季節は分からないが、ひょっとしたら飼い葉桶が唯一風を避けられたのかも知れない。



 中一の冬に初めて家出をしたが、寒さと空腹は忘れない。コンビニもない時代であった。地下の倉庫に潜り込み、真っ暗闇の中孤独であったし、誰からも理解されないと思っていた。しかしそれは間違いであった。飼い葉桶の中の主イエスだからこそ人の孤独をご存知である。
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 2022年12月18日 
「神の憐みの心」加藤誠牧師
ルカによる福音書1章76−80節



 天使によって告げられた息子の誕生を信じなかったことにより、ザカリヤは一年近く口が利けなくなった。62節には人々がザカリヤに息子の名を手振りで聞く。そうだとするとザカリヤは口だけではなく耳も不自由になっていたと思われる。



 神様の「恵み」は当事者にとって苦労を伴うことがある。妻のエリサベトは五か月の間身を隠していたと聖書は告げる。恐らくはマリアも身を隠さざるを得なかったと思う。



 祭司にとって口が利けず耳も聞こえないとなると、人に接して仕事を行うことは不可能であったろう。一年近くザカリヤが何をしていたのかを聖書は私たちに伝えない。ただ息子の名をヨハネと書いたことによりザカリヤは口が利けるようになる。聖書はザカリヤが「神を賛美し始めた。」と伝える。



 67節からはザカリヤの預言である。ここで明確に告げられるのは「主の民」であっても「罪の赦し」なくしては救われないことである。そして「罪の赦し」こそ「神の憐れみの心」によってもたらされることである。



 クリスマスの時期、教会はこのザカリヤの預言が今日の教会に伝えることが託されている事を覚えなくてはならない。ヨハネが主イエスの道備えをしたように、教会こそが人々が主イエスと出会う道備えをする役割が与えられているのである。
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 2022年12月11日 
「エッサイの根より」加藤豊子牧師
イザヤ書11章1−5節



 礼拝の中で、待降節の讃美歌96番を讃美しました。

「エサイの根より生いでたる。くすしき花は 咲き初めけり…。」

 とありますが、この讃美歌は、イザヤ書11章1節から作られています。



 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち」と預言者イザヤは語り始めます。「エッサイ」というのは、ダビデ王の父親の名前です。そして「株」と訳されている言葉は、木が切り倒されて残った「切り株」を意味しています。エッサイから生まれたダビデ王はイスラエルの第2代目の王であり、その後のイスラエルの歴史は、旧約聖書列王記に詳しく記されている通りです。



 神に背を向けて歩んだ結果、国は北と南の二つに分裂し北イスラエル王国はアッシリア帝国という巨大帝国に滅ぼされ、それから約150年後には、南ユダ王国もバビロニア帝国によって滅ぼされてしまいます。神の民として歩んできたイスラエルの民が、滅びを迎える…その悲しい姿が、木が切り倒されて残ったエッサイの切り株に譬えられているのです。



 切り倒された木は、枝も幹も葉もなくなってしまい、そこにはもう何も残っていないように見えます。しかしイザヤはここで、このもう死んでしまったかのように見える切り株から、一つの芽が萌え出で、新しい若枝が生えてくると告げています。そしてこの若枝こそ救い主、イエス・キリストであることが指し示されています。



 このイエス・キリストが与えられているからこそ、私たちはどのような状況の中でも希望を見出すことができるのです。
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 2022年12月4日 
「神からの恵み」加藤誠牧師
ルカによる福音書1章5−14節



 私たちは毎週使徒信条で「マリヤ」と発声し告白している。しかし新共同訳聖書では「マリア」である。つまり文章にするときには「マリア」であり、告白するときには「マリヤ」と実際に発音している。改めて考えると実に紛らわしい。



 ギリシャ語聖書ではマリアである。そして使徒信条の原文であるラテン語ではMARIAとなっている。つまりマリアである。何故マリヤと発音するのかは不明である。出来れば教団ではマリアに統一していただきたい。もっとも1600年に出されたカトリックの信仰告白ではサンタマリヤとなっている。マリアが話したであろうアラム語では「ヤ」の発音が入っていそうなので、結局のところどちらでも良いのかも知れない。



 マリアの身にこれから起こることを御使いガブリエルは「恵み」という言葉で表す。マリアが15歳前後であったとしても、「神の子」を産むことがどのような事態を引き起こすかは想像できたはずである。マリアは「恵み」という御使いの言葉を信じ身をゆだねる。



 旧約聖書には数多くの町や都市の名前が記されているが、ナザレは一度も登場しない。全く無名の町の、社会的には半人前で弱者とも言える一人の女性を通して神はその救いの業の完成を始められようとされた。名もなく力もない存在を通して神の救いの業が行われる。それが神の御心であり「恵み」である。
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