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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2023年1月29日
「二人の息子」加藤誠牧師
マタイによる福音書21章28−32節



 エルサレム神殿で、商売人たちを追い出したことに対して、「何の権威があってそのようなことをするのか」と祭司長たちは主イエスに詰め寄った。そのことに対して、主イエスは三つのたとえ話を語られ、その最初のたとえが今日の話である。



 このたとえは、ある意味単純である。ある人に二人の息子がいた。父親はその二人の息子に、ぶどう園に行って働いてほしいと願った。兄の方は、「いやです。」と断ったが、後で考え直して出かけた。弟の方は最初調子よく「承知しました。」と答えたが、結局何もやらなかった。主イエスは、兄と弟、どっちが父親の望む通りにしたのか、と祭司長たちに問うた。答えは明白で、兄の方である。徴税人や娼婦たちというのは、祭司長たちから見ればとても神の国には入れない存在であるが、この兄と同じように後で考え直して、信じて従ったのである。



 「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。…」(31節)主イエスは祭司長たちに対し、あなたたちは神の国に入れないとは言っておられない。彼らはこの後群衆を扇動して、イエスを十字架につけようとするわけだが、主イエスは敵対する彼らに対しても、後になって考え直してぶどう園に行ってほしい、救いの中にいて欲しいと願っておられる。後になってもいいから、考え直してほしい、これがここでのイエス様の大切なメッセージである。



 わたしたちには、考え直すという選択肢があるのである。わたしたちは様々な失敗を犯す。しかし主イエスのもとに立ち返って、考え直すというときが与えられており、それをイエス様が望んでおられることを覚えたい。
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 2023年1月22日
「信じて祈る」加藤豊子牧師
マタイによる福音書21章18−22節



 「いちじく」という果物は、聖書の中に70箇所位出てきます。ぶどうと並んで、豊かな実りを象徴する果物です。「いちじくとぶどうは、、豊かな実りをもたらす。」(ヨエル書2:21)とあるように、いちじくの木とぶどうの木の下に住むことは、人々にとって幸福、平和、豊かさの象徴でした。また旧約においてはイスラエル民族そのものが、いちじくの木にたとえられています。神様に選ばれた民として、豊かな実を実らせることを期待されているわけです。



 先週のお話では、エルサレム神殿で、異邦人が礼拝をささげていたであろうその場所で、両替をしたり鳩を売ったり…とにぎやかに商売をしている人たちがいました。主イエスは彼らを追い出し、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われました。神殿は祈りの家であるはずなのに、強盗の巣のようになってしまっている。それはまさに葉だけが茂って、一つの実りもないいちじくの木と同じで、実を結ぶことが出来なかったイスラエルの民の姿そのものを表していると言えます。



 エルサレム入城から二日目、主イエスはもうあと数日で捕らえられ十字架にかけられることになります。弟子たちはそのことを知りません。主イエスにはこの後弟子たちが、不安や疑い、混乱の渦の中に巻き込まれていくその姿が見えていたのではないでしょうか。疑わないで、信じて祈りなさい。これは弟子たちへの励ましの言葉でありまた、わたしたちへの言葉であることを受け止めたいと思います。
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 2023年1月15日
「祈りの家」加藤誠牧師
マタイによる福音書21章12−17節



 主イエスが神殿で商売をしている人たちを、怒りをもって追い出されたのには訳がある。彼らが商売をしていた場所は、本来は異邦人が祈りをささげる場所であった。当時、どれほどの異邦人がエルサレムの神殿で礼拝をささげていたのかは分からない。しかしそこはいかに神殿の入口付近であろうと、祈る場所であり商売をすべきところではなかった。



 主イエスが引用されたのはイザヤ書56章の言葉である。イザヤ書56章は異邦人、宦官の救いを語る。そして「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と告げる。エルサレムの神殿は全ての民に開かれた祈りの家である。しかし主イエスが見た現実は、イザヤの預言からは遠く離れ、小さく立場の弱い人が疎外されているかのような神殿の姿であった。



 先週一本の電話をいただいた。人道支援に関わる方からであった。窮地にあるのは外国人の女性であり、国籍は少々複雑である。生まれ故郷ではなく、パスポートに記された国籍での社会福祉を必要としている。どこまでお手伝いできるかは全く分からない。しかしまず祈ることから始められる。



 祈りをすべき場所に私たちは商売品を置いていないだろうか?主イエスが悲しまれたのは、ユダヤ人の祈りの姿勢であったように思う。それは同時に私たちの祈りの姿勢にも通じる。
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 2023年1月8日
「エルサレムへ」加藤豊子牧師
マタイによる福音書21章1−7節



 この箇所は「エルサレム入城」と呼ばれています。主イエスは直前に3回も、ご自分の十字架での死と復活について語っておられます。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。人の子を侮辱しむち打ち、十字架につけるためである。そして人の子は三日目に復活する。」(20:8)苦しみの杯を受ける覚悟でエルサレムへ入場された主イエスの姿と、ホサナと叫んで歓迎している群衆の姿が大変対照的な場面です。



 弟子たちは主イエスに言われた通りに隣の村に行き、子ろばを連れて来ました。それは旧約の預言者たちの言葉が実現したのだ、と聖書は語ります。「柔和な方でろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と真の王、救い主であるイエス・キリストの姿が示されています。王に相応しい乗り物は馬であるはずです。しかし主イエスは子ろばに乗って入城されました。馬が富と権力の象徴であるならば、ろばは貧しさと謙遜の象徴と言えるでしょう。



 またろばは、荷を負う者の姿を表しています。人間が自分の力では決して解決することができない罪の重荷、またわたしたちが抱える様々な悩み、苦しみ、悲しみ…一人では抱えきれない重荷を、主イエスは担ってくださるお方であります。



 「主がお入り用なのです。」(3節)わたしたちは色々と言い訳をします。わたしには力がありません、荷が重すぎます…。しかし、主語は主イエス・キリストご自身です。わたしたちがどのような者であったとしても「主が」わたしたちを必要としてくださっています。新しい年も、主の導き招きに応えて歩ませていただきたいと願います。
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 2023年1月1日
「聖別」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章21−26節



 クリスマス前後の事を伝えるのはマタイとルカである。ルカはバプテスマのヨハネと主イエスの誕生を対比するように記す。そしてどちらも8日目に天使から示された通りに名付けられた事を記す。マタイは残虐なヘロデ王の命令により悲劇が起こったことと、一家がエジプトに脱出したことを記す。かなり緊迫した状況が想像される。



 ルカでは旅と出産の厳しさは示されるが、命まで狙われる緊迫感はなく、むしろ神殿での出来事を語る。時系列を考えれば、エジプトへの避難は神殿で献げられた後に起きたと考えられる。ただルカではナザレに帰ったと記されているので、ルカにはエジプトへの避難は伝わっていなかったのかも知れない。



 ルカは主の律法では「初めての男子は主のために聖別される」ことを伝える。背景には出エジプトの出来事がある。「聖」という概念は分かりにくい。ユダヤ教の会堂でラビから手を洗う習慣について説明を受けたことがある。清潔さのため以上の意味がある。手洗いの鏡に聖句が記されていた。それは祈りの言葉でもある。つまり手を洗い清くなるのは同時に聖さ、つまり神に所属する存在としての自分を認識する大切な行為であると理解した。決して単なる習慣ではない。



 シメオンは献げられた主イエスに神の救いを見た。シメオンの年齢は分からないが、高齢であったことが想像される。生後わずか二か月にも満たない小さな赤ん坊に彼は救いを見た。私たちも「救い」を見続ける一年を過ごしたいものである。
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