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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2023年2月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2023年2月26日 
「最も大切な教え」加藤豊子牧師
マタイによる福音書22章34−40節



 受難節を迎えました。今朝読んでいただいた箇所も、主イエスの十字架が近づいている、という状況の中での出来事です。ファリサイ派、サドカイ派という日頃は仲の悪い人たちが、共通の敵イエスを倒すために手を組んでいます。一人の律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と質問しました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(37節)



 主イエスが示された最も重要な第一の掟は、申命記6章4節。シェマーと呼ばれる有名な戒めです。全身全霊で神を愛するように、と語られています。この戒めは、親から子へと伝えられ、家庭の中で大切にされていきた教えです。



 イエス様はさらに、第二もこれと同じように重要であると言われ、「隣人を自分のように愛しなさい。」と語られました。この戒めもレビ記19章に記されていますが、シェマーほど有名ではありません。この二つの戒めを結びつけて取り上げたところに、主イエスの新しい教えが示されています。



 「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 旧約聖書全体、神様の戒めの根底にあるのはこの二つの戒めです。十字架に縦と横があるように、神を愛することと隣人を愛することは、切り離すことはできないのです。主イエスの十字架が、神と人、また人と人との間に真の回復を与えてくださるのです。
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 2023年2月19日 
「税金問題」加藤誠牧師
マタイによる福音書22章15−22節



 ここにはファリサイ派とヘロデ派の人たちが登場する。同じユダヤ人であっても政治信条は真逆と言える。片や律法至上主義、片やローマ帝国によって立てられたヘロデ王に組する人たちがアンチイエス・キリストで協力したのが本日の箇所である。



 当時のユダヤ人社会では通常の通貨はローマ帝国内で流通している硬貨であった。ただ神殿での献金においてのみローマのみならず海外の通貨を両替しなくてはならなかったようである。ちなみに東京オリンピックでは参加は国と地域に分けられていた。国の定義の一つはその国独自の通貨を持つことである。その意味ではユダヤはローマの通貨が流通している以上、独立国とは到底言えない状態であった。



 皇帝に税金を納めることの律法上の是非を問われた主イエスは、是金に納める金を見せるよう要求する。彼らが見せたのはローマ皇帝の肖像が刻まれた銀貨であった。肖像は本来の所有者を表す。それ故に「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われて彼らは反論出来なかった。彼らは本来神にのみ仕える存在であったはずなのに、ローマ皇帝の支配の下で生きる生活がしみ込んでいたのではないだろうか? 



 それは私たちにも言えることである。月曜から土曜までをこの世の価値基準で生き、日曜のわずかな時間のみを神にお返ししている。主イエスの言われた「神のものは神に返しなさい。」とのお言葉は、もっと本質的な神を畏れる生活へと私たちを導くのである。
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 2023年2月12日 
「主イエスの招き」加藤豊子牧師
マタイによる福音書22章1−10節



 天の国が婚宴に譬えられています。「ある王が王子のために、婚宴を催した」とありますが、ここでは王様は神様のこと、王子は神の子イエス・キリストのことでしょう。王は家来たちを送って招いておいた人々を呼ばせたが、来ようともしなかった。さらに別の家来を送って招いたが、人々はそれを無視し、さらには家来に乱暴して殺してしまった、とあります。王の招きを断り家来を殺してしまった人々の姿に、イエスに敵意を抱くユダヤの指導者たちの姿が重ねられています。



 「だから町の大通りに出て、見かけた者は誰でも婚宴に連れて来なさい」(9節)

 王の更なる招きによって、善人も悪人も皆集められ、婚宴は客でいっぱいになった、とあります。悪人とは、罪人扱いされていた徴税人や娼婦たちのことでしょう。ルカによる福音書を見ると、貧しい人や身体の不自由な人、すなわち当時汚れている、神の恵みからもれているとされていた人々も招かれました。そこには、すべての人を、何の差別もなく招いてくださる、新しい天の国の招きというものが示されています。



 招かれた人々の中に礼服を着ていない人がいて、後で外に放り出されてしまったと厳しいことが書かれています。ここで言う礼服とは、各自が自分で用意するものではなく、王が招待者のために用意してくれるものでした。それを受け取らなかった、身につけようとしなかった態度が問題になっています。わたしたちは自分の力で罪汚れを清め天の国に相応しい礼服を用意することはできません。怒りや裁きの言葉には、神様の厳しさを感じます。しかしその背後には、敵意を抱く者も含め全ての人を招きたいと願う神の思いがあります。
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 2023年2月5日 
「隅の親石」加藤誠牧師
マタイによる福音書21章42−46節



 33節から41節までのぶどう園と農夫の「たとえ」は、主イエスによるイスラエル民族の歴史描写である。それも神と預言者と民の関係に絞った究極とも言える歴史解釈である。「ぶどう園」はイスラエル民族、或いはイスラエルの歴史であろう。神は歴史の中にイスラエルというぶどう園を造り、その運営を農夫、すなわちイスラエルの民に委ねられた。収穫を主人に渡すために送られたのが預言者である。預言者の使命の一つは主人のためにぶどう園を美しく、豊かに保つことにあった。そして預言者は神の言葉を忖度なしに伝えたが故に多くが殉教した。それが旧約時代のイスラエルの歴史である。



 主イエスは息子として登場する。祭司長たちが主イエスの殺害の意志を明確に持っていることを見越してのたとえ話である。



 43節の「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。」との主イエスの言葉は衝撃的である。祭司長たちはこの言葉を聞いても自らを省みることをしない。イスラエルの唯一の神殿が崩壊するのは、この時からほんの数十年後である。そして今日に至るまで神殿は再建されていない。



 では神の国が与えられる、ふさわしい実を結ぶ民族とはどのような民族であろうか?使徒言行録へと続く聖書の流れでは、それは「教会」と理解するのが自然に思える。では教会は神の国にふさわしい実を結んでいるのであろうか?
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