シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2023年3月 | 5日 | 12日 | 19日 | 26日 | 目次に戻る |
2023年3月26日 |
「読者は悟れ」加藤誠牧師 マタイによる福音書24章15−22節 |
◇ イエス様が十字架に架かられるという出来事が、直前に迫ってきている中で、主イエスは終わりの日について語られている。 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」(15、16節) ◇ 旧約聖書でダニエルは、荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つ、すなわち国が終わりになるような出来事が起きるということを預言した。それはエルサレム神殿を破壊するものが出てくるということを意味し、また主イエスは将来そのようなことが起こるということを語られた。「山に逃げなさい」とあるが、「山」とは神様がおられるところを意味する。主イエスはここで、安全な場所に逃げるように、神様のもとに駆け込むようにと勧めている。 ◇ インドネシアと言う国はイスラム教徒が多い国だが、スラウェシ島マナドはクリスチャンが非常に多い所である。そこにミナハサ福音キリスト教会というプロテスタントの教会がある。100万人の信徒がいるという。以前マナドを訪問したとき、真っ先に案内されたのは墓地であった。そのお墓に大事に保管されている遺品、それは400年以上も前に日本から逃げてきたキリシタンのものであった。日本の迫害から逃れるために、はるばるマナドまでたどり着いた人たちがいたのである。ただ神様の守りだけを信じて、逃れた人がいて、その地で守られ葬られ、遺品が大切に保管されて現在それを、わたしたちは目にすることができる。 ◇ 主イエスは、山に逃げなさいと言われた。迫害があって命からがら逃げなければならなかった人たちがたどり着いた先で、そこにも神様の守りがあったことを思わされる。 |
2023年3月19日 |
「惑わすもの」加藤豊子牧師 マタイによる福音書24章1−5節 |
◇ 弟子たちが指さした建物とは、エルサレム神殿のことです。ヘロデ大王によって、40年の月日をかけて完成された壮大な建物でした。マルコによる福音書では、「何と素晴らしい建物でしょう」と弟子たちが感嘆の声を挙げています。その大理石の美しさは、数キロ離れた所からも見えたと言います。しかし主イエスは「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言われました。目の前の立派な神殿が崩れ落ちてしまうと聞かされた弟子たちは、どんなに驚いたことでしょうか。しかし、この主イエスの言葉がその通りになったことをわたしたちは知っています。紀元70年頃、ユダヤ戦争によりエルサレムは陥落、神殿は崩壊。現在わずかに一部だけが残っているのが、あの「嘆きの壁」と呼ばれる部分です。 ◇ 「世の終わり」と言うと、わたしたちはこの世界の終わり、破滅のとき、と捉えやすいのではないでしょうか。「あなたが来られて世の終わるとき」(3節)とあります。世の終わりとは、主イエスが再び来られることによって神の救いが完成するときであることを聖書は語ります。信仰告白では「愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたもうを待ち望む」ようにと招かれています。 ◇ 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13節) 最後までというのは、途切れることなくという意味です。耐え忍ぶというのは、ただひたすら忍耐する、我慢するということではないように思います。困難、苦しみの中にあっても、主イエス・キリストに望みをおき、信仰を持ち続けるようにと招かれているのです。 |
2023年3月12日 |
「主イエスの嘆き」加藤豊子牧師 マタイによる福音書23章37−39節 |
◇ 「エルサレム、エルサレム」と主イエスは二度呼びかける。勿論これはこの町、この地方に住む全てのユダヤ人に対する主イエスの魂の叫び声を聞くような呼びかけである。 ◇ 前の段落から続く律法学者、ファリサイ派の人々への語りかけも、ストレートな語りかけである。ここで主イエスが直面しているのはユダヤ人の罪そのものである。でなければ、「お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」との厳しい裁きの言葉は出てこない。ユダヤ人の歴史の中で、幾度となく神は預言者を遣わし「罪」の悔い改めを促した。一時的に神に立ち返ったことも記されているが、全体を通してみれば前節で言われている通り、アベルからゼカルヤまで絶え間なく「正しい人」の血を流した罪の責任はユダヤ人にある。 ◇ ここで主イエスが嘆かれるのは、ユダヤ人の自らの罪を認めない頑なさである。自らの罪を認めるよりは預言者を殺す方を選ぶ罪深さである。それは私たちにも共通するものである。しかし主イエスは裁きの言葉でこの段落を終わらせない。「主の名によって来られる方に、祝福があるようにと言う時まで」主イエスを見ない、と記されている。これは主イエスが再び来られる時、つまり再臨の時までという意味であろう。歴代の預言者を殺害し、今また主イエスを十字架上で殺そうと企む人々に、主イエスは最後の希望の時があることを告げる。今の私たちは主イエスの十字架と復活の時と再臨の時の間を生かされているのである。 |
2023年3月5日 |
「師は一人だけ」加藤誠牧師 マタイによる福音書23章1−6節 |
◇ 「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。」(2節)と主イエスは言われた。それは、彼らがモーセと同じように、指導する立場にあることを示している。「彼らが言うことはすべて行い、また守りなさい」(3節)と言われたのは、決して皮肉で言っておられるのではなく、彼らの教えの正しさを認めておられるのである。しかし主イエスはまた「彼らの行いは、見倣ってはならない、言うだけで実行しないから」と律法学者たちを厳しく批判しておられる。 ◇ 「あなたがたは『先生』呼ばれてはならない。」(8節) 主イエスが一番残念に思われていたことは、律法学者たちが『先生』と呼ばれることにより慢心していること、高ぶる者となっていることであった。あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える人になりなさい。と主は言われる。 ◇ 「あなたがたの教師はキリスト一人だけである。」(10節) わたしたちには「恩師」と呼ぶ人物がいるかもしれない。時にわたしたちは、その恩師の延長線上にイエス・キリストを見ていたりする。あるいは、自分の教会の牧師の延長線上に、イエス・キリストを見るということは、起こり得ることである。 しかし、わたしたちが絶対に忘れてはならないのは、わたしたちの教師はキリスト一人だけである、ということである。そしてその一人だけの教師は、高ぶることなく、行いをもって神様の愛を実践されたのである。わたしたちはその方をわたしたちの主として、信じているのである。 |