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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2023年4月30日 
「過越しの食事」加藤誠牧師
マタイによる福音書26章17−25節



 過ぎ越しの食事とはユダヤ人にとって最も大切な祭りである、過ぎ越しの祭りで供される食事の事である。神とユダヤ人の救いに関する祭りの食事であるが故に、メニューは決められておりワインを飲む回数も決められていた。



 26節以降を読むと、この「過越しの食事」に主イエスは従来の「過越し」とは違う新しい意味を与えられた。28節にあるように「契約の血」である。私たちは最早過ぎ越しの祭りを祝い、過ぎ越しの食事を取ることはない。なぜなら主イエスの十字架の贖いにより、私たちは主の晩餐に招かれるからである。「契約の血」とはワイン及びぶどう液であるが、そこには神との「新しい契約」が主イエスの十字架によって成し遂げられた事が明確に意味されるのである。



 ユダが登場する。彼が何故主イエスを裏切ったのかはよく分からない。動機らしきものは幾つか推察されるが、本当の所は誰にも分からない。ただ福音書を通じて言えるのは、主イエスは彼の裏切りを悲しみ、何と引き返す道を彼に示そうとしていたことである。「生まれなかった方が、その者のためによかった。」とはなんと悲しみに溢れた主イエスの言葉であったろうか。状況からユダと特定できないような話し方をされたが、それにしても上記の主イエスの言葉は、私にとっては強烈な印象を残す。



 失われようとする魂をどうにかして引き留めようとする主イエスの心から出た叫びに聞こえる。
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 2023年4月23日 
「高価な香油」加藤豊子牧師
マタイによる福音書26章6−13節



 「二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」(2節)

 イエス様ご自身が、ご自分の苦難と死、十字架の出来事を予告しておられるという非常に切迫した状況の中で、一人の女性が高価な香油を主イエスに注ぎかけるという出来事が起こりました。「なぜ、こんな無駄使いをるするのか。…」という批判に対し、主イエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」と返されました。「良いこと」それは「美しこと」という意味もあります。



 この香油を注いだ女性の物語の前には、祭司長たちが計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談している姿が記されています。そして、この物語の後に出てくるのは、「あの男を引き渡せばいくらくれますか…」と裏切りを企てるユダの姿です。計略を練り、計算高く企てるという人々の中で、この女性の行いは何と美しいものだったでしょうか。そしてこの行為は葬りの準備でもあり、十字架を前にした主イエスにとって、最もふさわしいささげものでありました。



 この世にある教会は、この女性と同じような状況に置かれていると言えるかもしれません。様々な策略や悪意といったものが渦巻いている世の中、そのただ中で生きるようにと招かれています。「曲がった邪悪な時代のただ中にあって、いのちの言葉を固くもって、彼らの間で星のように輝いている。」(フィリピの信徒への手紙2:15)  わたしたちも、たとえ小さくても主イエスから「美しい」と言われる存在であることが、期待されているのではないでしょうか。
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 2023年4月16日 
「預けられたもの」加藤豊子牧師
マタイによる福音書25章14−30節



 今朝読んでいただいたところは「タラントンのたとえ」と言われ、教会学校などでもよくお話されるたとえ話です。「タラントン」とは、元々は重さ、貨幣の単位でしたが、やがて英語の「タレント」という言葉になり「才能」「技量」という意味を持つようになりました。



 ある人が旅行に出かけることになり、彼の財産を僕たちに預けました。そこに登場するのが3人の僕たちです。主人はそれぞれの力に応じて一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けました。5タラントン、2タラントンを預けられた僕はそれで商売をして儲け、帰って来た主人にほめられます。しかし、1タラントンを預けられた僕は地面に穴を掘り、そこに1タラントンを隠しておいたため「怠け者の悪い僕だ…」と叱られてしまいます。



 「ある人」とは、イエス様のことです。イエス様は天に帰られた後、弟子たち、わたしたちキリスト者に財産を預けられたのです。「預ける」という言葉には委ねる、任せるという意味があります。単に保管するのではなく、預けられた財産を十分に生かして用いることが期待されているのです。1タラントンを預けられた僕は、神様が厳しい方なので恐ろしくなって土の中に隠しておきました、と言い訳をしています。そこには、神様への信頼がありません。ただ失敗を恐れて、生かして用いることを期待している主人の心がわからないでいます。



 わたしたちもそれぞれ、力に応じて託されていいるものがあります。失敗してもいいから、大丈夫だから、わたしを信じてやってごらんなさい、と主は招いておられるのではないでしょうか。
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 2023年4月9日 
「世の終わりまで」加藤誠牧師
マタイによる福音書28章16−20節



 主の天使に主イエスの復活を告げられたのは、マグダラのマリアともう一人のマリアであったことをマタイは記す。この二人は天使から弟子たちへの伝言を預かるのだが、その道途中で復活の主イエスに出会う。エルサレムからガリラヤ湖まで、地図で見ると直線で約70キロ。徒歩ならば二日の行程であろうか。婦人たちからの伝言を受けてから、弟子たちがガリラヤに行くまでの事をマタイは私たちに伝えない。



 弟子たちは復活の主イエスに会いひれ伏す。聖書が「ひれ伏す」と言う時、それは礼拝の姿勢を示すことが多い。そしてマタイは続けて「しかし、疑う者もいた。」と語る。ガリラヤへの道中、主イエスの復活を疑う弟子がいても不思議ではないだろう。しかしマタイは復活の主イエスに出会い、ひれ伏しつつ疑う弟子がいたことを告げる。



 そう、私たちはひれ伏しつつ疑う。苦労して礼拝の時間を確保し、主のために出来る限りの奉仕をし、礼拝で心を合わせて賛美しつつ、本当にイエス様はおられるのだろうか?と疑ってしまう現実があるのではないだろうか?



 主イエスは疑う弟子を排除されなかった。疑い深い弟子も信じた弟子と一緒に礼拝に招き、今日に至る宣教命令を与えられた。しかもその命令文の中心は文法上間違いなく「わたしの弟子にしなさい。」である。ひれ伏すことしか出来ない主イエスの言葉である。そして「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」との主の約束でマタイ福音書は閉じる。
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 2023年4月2日 
「目を覚まして」加藤誠牧師
マタイによる福音書25章1−9節



 十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに行く。そのうちの五人は愚かで五人は賢かった。愚かなおとめたちはともし火を持っていたが、油の用意をしていなかったのである、というたとえ話が語られている。この話を読むと、自分は性格上、間違いなく愚かな五人の方に入るだろうなといつも思わされる。



 おとめたちが準備していなかった油とは、一体何を意味しているのだろうか。欠かしてはいけない油を欠かしてしまっていた。その油とは何なのか、ということを考えさせられる。



 何があっても大丈夫ですよ、という信仰を、わたしたちは神様から与えられているのではないだろうか。わたしたちの常識では対処できないようなことが、現実では起きる。しかしそういうことが起きたとしても、しっかりとわたしたちの日常を見ていてくださるお方がおられるのである。



 このマタイが生きていた時代というのは、戦争と戦争の噂を聞く、自分たちの生活はままならない、でもイエス様はいつ来られるのかわからないという不安の中にあった。そういう中で、この信仰の出来事をイエス様から聞いたことが、わたしたちに伝えられている。イエス・キリストは必ず来てくだる。そして大事なのは、油を持っているかどうかである。その油とは、イエスに対するわたしたちの信仰のことである。わたしたちの明日、わたしたちの命、そのすべてを預けて大丈夫、と言ってくださる、そういうお方を、わたしたちは救い主として信じているのである。
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