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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2023年5月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2023年5月21日 
「聖霊に満たされて」加藤誠牧師
使徒言行録2章1−6節



 私が洗礼を受けた教会は「聖化」という概念を大切にしていた。グループの教会が主に支える神学校も「聖化」つまり「聖霊に満たされる」ことに重きを置いていた。「聖霊に満たされた」経験を持つ人の証を聞いたことがあるが、使徒言行録に記載されているような、突如として外国語を話すことができるようになった人には出会ったことがない。私からすると2章の出来事、つまり習ったこともない外国語を話すなど奇跡以外にあり得ない。私は仕事で英語を使っていたが、英文科でもなく、海外留学も生活もしたことのない身にとっては、それなりに苦労した。



 弟子たちの置かれていた状況はかなり厳しいものがあった。主の十字架と復活の意味を理解していないのは1章6節で明らかである。しかも主イエスはわずか40日で帰天されてしまう。そして弟子たちには迫害の危険が常に身近にあった。残された主イエスの約束は「聖霊が降ると、力を受ける」であった。勿論弟子たちには聖霊の存在を理解できない。今の時代の私たちにとっても聖霊の存在は理解を超える。彼らに出来ることは心を合わせて祈ることだけであった。今の教会に一番必要なのは「心を合わせて祈る」ことであろう。



 聖霊に満たされた弟子たちは、「神の偉大な業」を語る。人に勇気と生きる希望を与えるのは人間の成功体験ではない。神の業こそが人を救いに導くことをこの出来事は伝える。
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 2023年5月21日 
「ペトロの後悔」加藤誠牧師
マタイによる福音書26章69−75節



 今日読んで頂いたところは、ペトロの極限状態の姿を私たちに示している。場所は、イエス様が死刑判決を受けるという裁判所である。中庭というのは大祭司の中庭である。イエス・キリストを死刑にするためには、ピラトというローマの総督の許可が必要だが、その前にユダヤの人々の中で裁かれたのである。そこで、もしペトロの身分が明かされると、彼も殺されてしまう、という大変危険な状況であった。他の弟子たちは逃げてしまったとあるのに、なぜペトロは、そのような危険な場所に行ったのだろうか。



 ペトロは誓う、呪う、と言う言葉を使ってまで、必死でイエス・キリストとの関係を否定し、自分の身を守ろうとする。ペトロはまさに極限状態にまで追い詰められている。自分だったら、先ずその場に行かないだろうし、たとえ行ったとしても、自分の身を守るために偽証したとなったら恥ずかしくて、とてもその場にいられなくなるだろうし、死ぬことさえ考えたかもしれない。ただ聖書を見ると、「ペトロは『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」とある。何を思って激しく泣いたのかはわかない。ただ一つはっきりしていることは、ペトロはイエスの言葉を思い出したのである。そしてこの思い出した、ということが、この後のペトロの行動を決定づけたのではないか。極限状態の中で、イエスの言葉がペトロを支えたのである。
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 2023年5月14日 
「孤独な救世主」加藤誠牧師
マタイによる福音書26章47−56節



 聖書は忖度なく、人間の姿を描き出す。ユダは接吻をもってイエスを裏切った。接吻と言う言葉の語源はフィレオーという言葉にあり、それは人間の愛情を指す言葉である。ユダは、自分が敬愛する人物に対する愛情表現をもって師である主イエスを裏切ったのである。それは大変卑劣な姿である。そしてまた、人を殺してしまっても構わない位の激情に支配されてしまう人間の姿があらわされている。



 人間の悪意というものは増幅する。おそらく、ユダの心の中に芽生えたイエス・キリストに対する抵抗感、即ち自分の理想とする姿と違うという思いは膨らんでいき、ついには殺してしまおう、というところまで行ってしまっている。これが人間の姿なのだと、聖書は描写している。



 ごく普通の人間が、イエス・キリストを見捨てて逃げた。ごく普通の人間が、剣や棒を持ってイエスを捕まえようと襲い掛かってきた。ごく普通の人間が、非常に卑劣な方法でイエスを裏切ったのである。けれどもそこで示されるのは、すべての人間に見捨てられ、裏切られても、聖書の言葉を成就するために、神様が備えられた救いの道を達成するために、イエス・キリストはたった一人でその十字架への道を歩まれたということである。そしてそこにこそ人間の救いがある、と聖書は伝えている。そしてそのことを、教会は語り継いでいかなければならないのである。
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 2023年5月7日 
「ゲッセマネの祈り」加藤豊子牧師
マタイによる福音書26章36−46節



 主イエスが十字架に架かられる直前、オリーブ山にあるゲッセマネという地で祈られた姿が記されています。

 「父よできることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」(39節)

 ここで「杯」とは神の裁きの象徴です。わたしたち人間の罪に対する神の怒りが、その杯には溢れています。そして罪のないお方、イエス・キリストが、すべての人の罪の罰を代わりに受けてその裁きの杯を飲もうとされているのです。その苦しみ、悲しみは、わたしたちには想像もできないものです。



 ゲッセマネの祈りの前のところでは、「今夜あなた方は皆わたしにつまずく」と言われました。主イエスはユダだけではなく、弟子たち全員がご自分を裏切り、離れていくのをご存知でした。そしてゲッセマネの苦しい祈りの時、せめて目を覚ましていてほしいと願われましたが、弟子たちは皆眠ってしまったのです。「イエスはここで、孤独の極限に立たされている」とある牧師は語っています。



 わたしたちも、わかってもらえない苦しみ、悲しみを抱えるときがあります。しかし、「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と言われる主イエス・キリストは、わたしたちの真の慰め主であられます。



 御心を求め、主イエスは3回、祈りを重ねられました。そして最後には「立て、行こう」と言われ、立ち上がっておられます。目の前にあるのは厳しい道ですが、神から与えられた平安が主イエスの内に満ちていたのではないでしょうか。
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