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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2023年7月30日 
「新しい生き方」加藤豊子牧師
エフェソの信徒への手紙4章25−32節



 今朝読んで頂いた箇所には小見出しがついていて「新しい生き方」とあります。「古い生き方」を捨てて「新しい生き方」へと招かれている者、それがキリスト者であると言えるでしょう。



 「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。」(25節)

 「隣人に対して」とあるように、ここで取り上げられているのは、わたしたちが他者との関係をどうするのか、隣人にたいしてどう関わるべきなのか、という問題です。先ず「偽りを捨てて、真実を語りなさい」ということが言われ、次に「怒ることがあっても罪を犯してはなりません」とあります。怒りの感情をコントロールするのは難しいことです。また隣人に対して真実を語ろうとするならば、ときに間違っていることは間違っている、これはおかしい、と声を上げることが必要なときもあるのではないでしょうか。



 主イエスも神殿で、両替人たちが礼拝の妨げる行為を行っていたとき、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」と言われ、怒りを表されました。ここでは、わたしたちが「怒り」と言う感情に支配され続けることがないように、と語られてます。



 29節には「悪い言葉を一切口にしてはなりません。」とあります。ルターは「悪い言葉」を「くさったおしゃべり」と訳したそうです。周りをいつのまにか腐らせていくような、悪い影響を与える言葉を慎むように言われています。



 そして最後に「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」と勧められています。キリストに結ばれ、教えられて歩む者でありたいと願います。
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 2023年7月16日 
「キリストに向かって」加藤豊子牧師
エフェソの信徒への手紙4章7−16節



 「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(11節)

 今からおよそ2千年前の、生まれたばかりの教会に、すでに様々な職務を与えられた働き人たちが、たてられていたことがわかります。教会は決して無秩序に活動していたわけではなく、教会の中に、奉仕のために人がたてられるという制度があり、様々な働き人、奉仕者がいたことがわかります。



 教会にとって大切なことは何でしょう。何を目指していくのでしょうか。今朝読んでいただいたところの最後16節に、こう記されています。

 「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」

 ここでは教会が「体」にたとえられています。そしてその体に属する「節々」というものがわたしたち一人一人を表しています。教会とは、わたしたち一人一人が組み合わされて、愛によって造り上げられていくところである、と語られています。

 「愛に根差して真理を語り」(15節)とあります。「愛に根差して」ということと「真理を語る」ということ。この二つのことは、切り離してはならないことであり、両方が大切なのだと言うことが示されているのではないでしょうか。そしてわたしたち一人一人が、教会が、キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長することが期待されていることを覚えたいと思います。
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 2023年7月9日 
「主にあって一つ」加藤誠牧師
エフェソの信徒への手紙4章1−6節



 3章1節に続いて4章1節でも「囚人」という言葉が登場する。パウロの手紙の中には獄中書簡と位置づけられるものがある。つまりここでの「囚人」は比喩的な表現ではなく、実際にどこかの獄中からエフェソの信徒に向けてしたためられたものである。そしてパウロの手紙はエフェソ一か所だけでなくその周辺にある町や村の教会でも礼拝で読まれていたようである。



 ここの箇所では「一つ」という表現が印象的である。使徒言行録を読むと、パウロはユダヤ教の会堂で伝道することが多かった。それはユダヤ人キリスト者を生み出しつつ、同時にユダヤ人たちから猛烈な反発と迫害を招いたことが記されている。パウロが開拓した教会には異邦人キリスト者も多くいたようである。一口に「異邦人」と言っても、それはユダヤ人から見た外国人であり、その背景は多種多様であったと思われる。



 使徒言行録6章ではギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に苦情がでたことが記録されている。同じユダヤ人キリスト者であっても話す言語が違うために教会内に差別のようなものが生じた。ましてや国籍も言語も違う者がキリスト者の一点で同じ教会で礼拝をささげていたようである。



 パウロは「寛容」「忍耐」という言葉まで持ち出す。違う者同士がお互いを受け入れるには、お互いの「忍耐」が必要なのである。しかも「愛」をもって「互いに忍耐」することを勧める。つまりキリストの愛を持ってなお「忍耐」するのである。パウロはそこに教会の信仰と希望を見ている。
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 2023年7月2日 
「キリストの愛」加藤豊子牧師
エフェソの信徒への手紙3章14−19節



 今朝与えられているみ言葉は、、パウロの執り成しの祈りです。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」(14節)とあるように、パウロは捕らわれの身でありながら、伝道旅行を通して生まれた教会、その教会に属する人々のことを思い、神の前にひざまずいてとりなしの祈りをささげています。



 この祈りの中で、キリストの愛を理解し、知ることができるように、ということが祈られています。18節には「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」とあります。広く、長く、高く、深いキリストの愛とは、どのような愛でしょうか。地平に広がる広さと長さ、垂直に伸びる高さと深さ…それは、限りのない、キリストの豊かな愛を表しています。わたしたちは人と人との間に、様々な隔ての壁をを作ってしまうような者であり、またお互いを真実に愛すること、赦すことが難しい者です。イエス・キリストは、ご自分を十字架にかけた者たちをご覧になって「父よ彼らをお許しください。何をしているのか分からないでいるのです。」と執り成しの祈りをささげ、わたしたちすべての者を救うために十字架にかかり、ご自分の命を捨ててその愛を示してくださいました。



 わたしたちキリスト者、信仰を与えられ、心の内にキリストをお迎えしている者は、このキリストの愛を知り、その愛に生かされて歩むようにと招かれています。

 わたしたちは欠けの多い者であり、とてもキリストの愛に近づくことはできないと思わされますが、20節に示されているように、神は、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えて叶えることがおできになるお方です。
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