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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2023年8月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2023年8月27日 
「光あれ」加藤誠牧師
創世記1章1−3節



 東日本大震災で石巻の仮設住宅を訪問した時、遠野の民話の語り部を派遣してほしいとの依頼を受けた。遠野の語り部に相談したところ快く引き受けていただけたが、彼らは仮設に避難した人たちの出身地を調べ、慎重に民話を選んだ。人は理解を超える厄災に見舞われる時、自然に自分たちのルーツがどこにあるのかを知りたがる、と語り部たちに教えていただいた。



 創世記は聖書の一番最初に位置すべき書物である。しかしいつ成立したのかについては諸説ある。よく耳にするのがバビロン捕囚の時に成立したとする説である。唯一の神殿は破壊され、青年、壮年層は約1000キロ離れたバビロニアに移住させられ、文化も言語も宗教も違う環境の中で彼らは生き抜かねばならなかった。それがどんなに過酷であったかは私たちの想像を超えると思う。



 ユダヤ人にとっての最大の危機は神を信じられなくなることであった。自分たちのルーツを見失う危機の中、創世記は「初めに、神は天地を創造された。」と告白する。誰も見ることが叶わない神の天地の創造を創世記は当り前のように告白する。それは自分たちがこの世に生まれた根源を神に見ているからに他ならない。



 創世記はその冒頭、すべてのルーツに神を見る。国が亡び、家族や文化、言語を失っても、彼らは自分たちの人生に意味を見出したのではないかと思わされる。
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 2023年8月20日 
「神の武具」加藤豊子牧師
エフェソの信徒への手紙6章10−20節



 「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。」(10節)

 自分の力、自分が持っているものに頼るのではなく、「主に依り頼み、その偉大な力によって」強くなることが求められています。何故ならば、キリスト者が直面している戦いとは、暗闇の世界を支配する力を相手にしているからです。



 「悪魔」と言う言葉が出てきますが、ギリシャ語では「ディアボロス」、元々は「引き離す、切り離す」という意味です。神様と人間との間を引き離し、自分の支配下に移そうとする力、存在ということができるでしょう。わたしたちが神様に近づこうとするとき、従おうとするとき、そこに邪魔をして引き離そうとする力が働くということです。そうした力に対抗するために「神の武具」を身に着けることが勧められています。



 「なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。」(16節)放たれる火の矢は「疑い」という火の矢かもしれません。わたしたちの信仰に揺さぶりをかけ、神様と引き離そうとする火の矢、様々な誘惑の火の矢が放たれるでしょう。それに対しては、信仰を盾にとって立ち向かうようにと語られています。



 そして最後に示されているように「神の言葉」と「祈り」、この二つが、わたしたちに与えられている、戦うための武器なのです。
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 2023年8月13日 
「時を生かして」加藤誠牧師
エフェソの信徒への手紙5章15−20節



 先週の説教では、主に結ばれているならば、あなたはもうすでに、光となっている。光の子として歩みなさい。そう語られていました。しかし現実問題、闇の中で光の子として生きるということは、そうたやすいことではないでしょう。闇と光は、相いれない者同士です。そこには摩擦や戦いのようなものが、生じるのではないでしょうか。



 「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(16節)

 多くの人々が神様のことなど忘れて、自分の思いのままに生きている。そのような大きな流れに、わたしたちは呑み込まれそうになります。そのような時代の中で、神様の御心が何であるか悟りなさい、神様から与えられている時を大切にしなさい、そう勧められています。



 そして続いて示されているのは、霊に満たされて讃美しなさい、感謝しなさい、ということです。とても神様を賛美するような気持ちになれない…そういう時もあるかもしれません。感謝なんかできない…そう思うようなことが起こってくるかもしれません。しかしどのような時も、主イエス・キリストによって罪と滅びから救われた喜びを思い起こし、主に向かって心からほめ歌い、父なる神に感謝することは、光の子として生きるわたしたちの大きな力となるのではないでしょうか。
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 2023年8月6日 
「光の子として」加藤豊子牧師
エフェソの信徒への手紙5章6−14節



 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(8節)

 わたしたちは、イエス・キリストを救い主として信じる前、かつては闇に捕らわれた者でありました。まことの光であるイエス・キリストを知らず、そのために自分が何者なのか、何を目指して生きているのか、何も知らない者であったわけです。そのように、神に背を向けて生きていた者が、「今は主に結ばれて、光となっています。」とはっきり宣言されています。主に結ばれることによって、そのうち光になるでしょう、と言うのではなくすでに「光となっている」とそう言い切っています。イエス・キリストに結ばれた者は皆、主イエスの光を内に宿し、その光を輝かす者とされているのです。



 エフェソの教会は生まれたばかりの小さな教会であり、周りには数多くの異教の神々がおり、また闇の世界へと誘う誘惑も多かったのでは、と想像されます。ですからパウロはここで、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」「仲間に引き入れられないように」と諭しているわけです。



 「わたしは光の子です」そう自信をもって、胸を張って言えるキリスト者はいないと思います。しかし、キリストの光を内に与えられているのです。キリストの愛、平和を証しする者として歩ませていただきたいを願います。
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