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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2023年9月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2023年9月24日 
「父母を離れて」加藤誠牧師
創世記2章21−24節



 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」(15節)

 「耕し、守る」という役割、仕事が、人に与えられています。「耕す」と言う言葉はラテン語では農作業の意味に加えて、英語のカルチャー(文化)の語源になっています。農作業の技術が進化し、文化も深められていく、その源がエデンの園を耕すことから始まっています。



 「守る」と言う言葉は英語でケア フォーであり、神から託されたこの世界を介護するように大切に扱い、より豊かな実りあるものにするように求められています。果たして現在わたしたちは、神から託された世界、環境を耕し、守る役目を果たせているのかと問われています。



 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(18節)

 「神は良しとされた、祝福された」という言葉が続いていましたが、ここにきて初めて「良くない」と言われました。人には「助ける者」が必要だということで、人のあばら骨から女が造られ人のところに連れて来られたことが記されています。



 この「助ける」という言葉は、上の立場の人に対して下に置かれている人が、仕えて助けるという意味ではありません。不完全な人を支える、補う、不可欠な存在、という意味です。ですから、男性女性、両方が対等なパートナー同士であり、互いに助け合い、補い合って生きるようにと示されているのです。
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 2023年9月17日 
「命の息」加藤豊子牧師
創世記2章4b−9節



 創世記1章1節以下の天地創造物語の頂点と言えるのは、「人間の創造」でありました。人は神のかたちに、すなわち神に似たものとして造られた。それは、神と人との間には、「あなた」と「わたし」という関係があり、人は神と向き合う、交わることのできる存在であることが語られていました。 



 2章4節以下においては、人は神によって形作られたものであると語られています。「土の塵で」というと、ちり芥のような粗末なものを想像しやすいですが、無数なもの、細かい土の粒を意味することもあります。そういう意味では、良質の粘土で、陶器師が陶器をつくるように人を形作られたことが示されています。イザヤ書29章では、神に背を向けたイスラエルの民に対し「お前たちは何とゆがんでいることが。陶工が粘土と同じに見なされうるのか。造られた者が造った者にいいうるのか。…」と創り主なる神を忘れないようにとの言葉が語られています。



 「…その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(6節)

 「息」「霊」(ルーアッハ)、神の霊が吹き入れられ、人は生きる者となったと語られています。わたしたちは神に呼びかけ、神に祈り、また神の声を聴き、信じる心が与えられ、神と共に歩む者とされているのです。
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 2023年9月10日 
「神の安息」加藤誠牧師
創世記2章1−4節



 「天地の創造」は2章4節半ばをもって一段落する。天地万物の完成は7日かけて行われた。神は6日を創造の仕事に充てられ、第7の日は創造の仕事を離れ、安息された。



 ここで覚えるべきは2節「第7の日に、神はご自分の仕事を完成され」た事である。「安息される」ことによって神はご自分の仕事を完成されたのである。3節は「安息」の具体的な内容が記されている。「祝福」と「聖別」である。第7の日を神は被造物の祝福と聖別に費やすことによって天地万物を完成されたのである。



 数は少ないと思いますが、教会によっては「十戒」を礼拝で唱えるところもあると思います。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」とは第4戒にあたります。「いかなる仕事もしてはならない」ことが奴隷も家畜も外国人にも適応されます。休息は非常に大切です。強制的とも言える休日の設定のように思う人がいても不思議ではありません。



 しかしここにも「祝福」と「聖別」という言葉が出てきます。これは創世記2章3節の「祝福」と「聖別」に呼応しています。つまり、私たちにとっての「安息日」は神の「祝福」に与るために存在しています。「聖別」とは神様のものにすることです。私たちのルーツが天地創造の祝福まで遡ることを覚えるのが、私たちにとっての安息日なのです。
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 2023年9月3日 
「神にかたどって」加藤豊子牧師
創世記1章26−31節



 「初めに、神は天地を創造された。」(1節)

 大変印象に残るこの言葉で、創世記は始まります。この世に神は存在しない、自分は無神論者だと言われる方もいます。聖書に示されている神とは異なるものを、神と信じる方もいます。あらゆるものに神は宿っていると、考える人もいます。様々ある中で、聖書はこの世界には「初め」があり、そして「天地を創造された」神がおられるとはっきり宣言しています。



 先週も語られていましたが、この天地創造物語の背景には、イスラエルの国が滅ぼされ、主だった人々がバビロニアへと連れ去られたバビロン捕囚時代の出来事があると言われています。それは、国が、家族が、自分自身が壊れていくという崩壊へと向かう経験であり、また今まで信じてきた神を否定されたような、信仰の危機でもありました。そのような状況の中で、信仰告白としてこの物語は語られています。



 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(26節)

  ここには、人間を他の被造物とは違う、特別なものとして造ろうとされる神の強い意志、思いのようなものを感じます。29節では「あなたたちに与えよう」と、人間は神から「あなたたち」と呼びかけられています。わたしたちは、神からの呼びかけに応えることができる存在であり、一方通行ではない、豊かな神との交わりに生きることができるのです。
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