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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2023年10月29日 
「バベルの塔」加藤豊子牧師
創世記11章1−9節



 「 さあ、天にまで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地にちらされることのないようにしよう」(4節)

 人々は、天にまで届く塔の建設を目指しました。「天」とは創造主なる神のおられるところ、聖なる領域です。そこにまで届こうとするのは、人間が神のようになろうとする、傲慢な姿を示しています。エデンの園でアダムとエバが、蛇にそそのかされて、神のように善悪を知るようになると言われた、食べることを禁じられていた木の実を食べた場面とよく似ています。そして、有名なるとは自分の栄光を輝かそうとすることです。



 人間は、化学技術を発達させ、地球資源を思うままに浪費して、繁栄と便利さを築いて来ました。それがどのような結果を招くのか…今わたしたちは、それを見せられているのではないでしょうか。



 神様はこのことに介入され、人々の言葉を混乱させ、お互いの言葉を聞き分けることができないようにしました。「混乱」という言葉はヘブル語で「バラル」と言い、この「バラル」から町の名が「バベル」と呼ばれるようになりました。



 バベルの塔の欠陥…それは、神の言葉を聞くことを排除した人間の企てだったことです。神への祈りを欠いた人の計画は空しく、実を結ばないことが示されています。
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 2023年10月22日 
「祝福と契約」加藤豊子牧師
創世記9章1−11節



 「ノアは主のために祭壇を築いた。」

 「祭壇を築く」という言葉は、しばしば旧約聖書に出てきます。これは「礼拝をささげる」ということです。ノアは先ず神様に礼拝をささげ、新しい一歩を歩み出しました。



 「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ」と神様は言われました。神様は罪を繰り返す人間のことを決して諦めておられるわけではありません。忍耐して受入れようと心に決められたのです。諦めるということは、その人と関わることをやめるということです。しかし神の忍耐とは、神の一方的な愛から生まれたものです。決してあきらめずに、忍耐をもってわたしたちを受け止めてくださるのです。



 「すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」(13節)

 これから先、人間がどんなに神様を悲しませ、また裏切るかもしれないということを承知の上で、それでもわたしたちを守ってくださるという愛を示してくださった契約です。



 この虹は、イエス・キリストによる救いという新しい契約をも示しています。虹の架け橋ではなく、イエス・キリストの十字架という架け橋が、罪深いわたしたち人間と神様とをつないでくださっていることを覚えます。
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 2023年10月15日 
「ノアの物語」加藤豊子牧師
創世記6章9−16節



 古代オリエントの文献の中に、「洪水物語」と言われるものを多く見出すことができます。聖書に記されている「ノアの箱舟」という洪水物語は、単なる伝説、言い伝えの一つとして書かれているわけではありません。そこには罪に対する厳しい裁きと同時に、神の救いが用意されていることが示されています。そしてまた「ノア」という一人の人が、神の前に信仰をもって生きたその姿を見ることができます。



 「ノアは神に従う無垢な人であった。」(9節)

 口語訳聖書では「正しく、かつ全き人」とあります。これは、品行方正であるということではなく、神との関係が正しい、ということを意味しています。「無垢」というと、真っ白、完璧な白さをイメージし、罪が全くない状態のように思えますが、これは混じりけのない、純粋さを示しています。わたしたち人間は弱く失敗をする、失敗の連続かもしれない。しかしたとえ失敗しても、罪を犯すことがあったとしても、カインのように顔を伏せたままではなく主に心を向け、素直に主の御名を呼ぶことができます。



 神が命じられた通りにノアは、黙って箱舟を造りました。周囲からは笑われ、意味がないとからかわれたことでしょう。今の時代、聖書の言葉を信じて、目には見えない神に従って生きていくことは、世の多くの人々から意味のないことのように思われるかもしれません。しかし、そこに真実な道があると、ノアのように無垢な心で神に従って歩むようにわたしたちは招かれています。「これはノアの物語である」(9節)わたしたちも今この時代に、自分の物語を生きています。
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 2023年10月8日 
「カインとアベル」加藤豊子牧師
創世記4章1−10節



 聖書は「聖なる書物」と書きます。汚れのない、清い、美しい言葉で満ちているかと思いますが、聖書が映し出しているのはわたしたち人間の罪深い姿、罪の現実であります。カインとアベルという二人の息子が与えられ、喜びに満ちて家族の歩みが始められたはずなのに、そこに起こったのは兄が弟を殺してしまうという大変な事件でありました。「カインとアベル」だけではありません。旧約聖書を読み進めていくと、次々に登場する家族の中で、問題、トラブルが続出しています。



 人間誰しもが心のうちに抱く妬み、憎しみ、怒り…そうした感情が、いかに厄介なものか、扱いが難しいか…。下手をすると大変な問題、結果をもたらすという罪の現実が、そこに示されています。



 何故弟アベルの献げものが神に受け入れられ、兄カインの献げものは受け入れられなかったのか。明白な理由は明らかにされていません。ただこのとき、「カインは激しく怒って顔を伏せた。」(5節)とあります。「顔を伏せた」というのは、神様の方に顔を向けられない状態です。



 神様はこう問いかけます。

 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」(6節)

 わたしたちも、理不尽に思う現実に直面することがあるかもしれません。しかしそのような時、顔を伏せるのではなく、神に顔を向けて祈り求める者であるようにと招かれています。
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