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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2023年11月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2023年11月26日 
「顧みられる神」加藤豊子牧師
創世記16章6−13節



 アブラハムたちがカナンの地に住み始めて、10年の月日が流れました。子どもが与えられるという神様の約束は、未だに実現しません。二人とも相当な高齢になっていたはずです。子どもを産むのは、妻サライです。アブラハム以上に自分の体の衰えを感じ、こんな体でとても子どもなど産めるはずがないと、より現実的に無理だと、神様の約束を信じられない気持ちだったのではないでしょうか。



 サライはアブラハムに、女奴隷ハガルを側めにすることを提案します。そしてアブラハムはその提案を受け入れました。自分たちに後継ぎが与えられるためには、現実的な良い案だと思ったのではないでしょうか。二人の願い通りにハガルは身ごもりました。するとハガルはサライを軽んじるようになったとあります。サライは「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」と夫アブラハムを責めました。一つの家庭が憎しみと妬み、対立の修羅場となりました。そこには神様に問いかける姿は見られません。



 サライがハガルにつらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げました。一人荒野をさまようハガルの悩み、叫びを神様は聞いてくださいました。そしてハガルは主の御名を呼び「あなたこそエル・ロイ」わたしを顧みられる神、と言いました。顧みるとは、見ていてくださるということです。この神様との出会いによって彼女は、もう一度忍耐してやり直す力が与えられました。



 どこにも助けを見出せない、そのような状況に置かれることがあるかもしれません。しかし「エル・ロイ」わたしたちを顧みてくださる、見ていてくださる神がおられるのです。
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 2023年11月19日 
「契約」加藤豊子牧師
創世記15章1−6節



 神様はアブラハムに「あなたの子孫を大地の砂粒のように、数えきれないほどにする…」(13:16)と約束されましたが、子どもが与えられるという約束は、未だに果たされません。アブラハムは神様に尋ねました。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラハムは自分の気持ちを率直に神様にぶつけています。そこには、約束を信じられない気持ち、いらだち、あきらめのような思いも感じられます。



 すると神様は「あなたから生まれる者が後を継ぐ。」と言われ、アブラハムを外に連れ出してさらにこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」「あなたの子孫はこのようになる。」外に連れ出され、満天の星空を見せられて、アブラハムは圧倒されたのではないでしょうか。神様の大きな存在の前に、自分は何と小さな者だろうかと、言葉も出ない思いだったでしょう。



 「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(6節)

 アブラハムはここで、神様に認められる立派な信仰が持てた、というわけではありません。むしろ彼が天を仰いで思い知らされたのは、自分の小ささ、弱さでした。迷ったり疑ったりする愚かな自分の姿、信じ続けることができない弱い自分…でもそこに目を向けるのではなく、天を仰いで全能の神に目を向け、このような自分を顧みてくださる神の真実と愛を信じたのです。信じるとは、神様の前で白旗をふること、全面降伏することだとある人は言います。



 またアブラハムと神様とのやりとりの中で、アブラハムの信仰が、祈りが深められていることも思わされます。祈りの対話を通して、アブラハム自身が変えられていくのです。
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 2023年11月12日 
「人の思い」加藤豊子牧師
創世記12章10−20節



 創世記の第2部、アブラハム物語が始まりました。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムは行先を知らずに、神様の招きの声に従って、出発しました。今朝読んでいただいたところでは、信仰の第一歩を踏み出した途端に、早速つまずいているという姿が記されています。



 「その地方に飢饉があった。アブラハムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」(10節)

 「その地方」というのは、導かれたカナンの地であったと思われます。家族や使用人たち、多くの家畜を連れて移動してきたわけです。まだその地に頼れる人もいない中で、ひどい飢饉に見舞われました。これはアブラハムとその家族たちの生命の危機であり、アブラハムの信仰の危機でもありました。エジプト行きの決断、それはその地が豊かな土地であり、そこに行けば飢えることはないと考えたからではないかと思います。



 しかし、その決断に、神様に祈り訴える姿がないのです。アブラハムの独断であったのではないでしょうか。さらに避難先で、妻サライを妹と偽るという策を立てました。妻サライは美しく、そのために妻を欲しいという人がでてくるかもしれない。自分が夫であることがわかると、そのために自分が殺されることになるかもしれない。その危険を避けるためだったといいます。神様はそのことのために、エジプトのファラオたちを恐ろしい病気にかからせました。



 アブラハムはファラオに呼ばれ「あなたはわたしに何ということをしたのか。」(18節)と言われます。これは、ファラオの口を通して神様がアブラハムに迫っておられる言葉ではないでしょうか。「あなたはここで何をしているのか」と神様は問われました。それは突き放す冷たい言葉ではなく、そこから立ち返って戻ってくるようにと招いてくださっている言葉です。神様は、弱く、愚かな者であることをご存知の上でわたしたちを選び、み業のために用いてくださるのです。
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 2023年11月5日 
「わたしが示す地に」加藤豊子牧師
創世記12章1−4



 創世記の12章からは、アブラハムの物語が始まります。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人物です。その信仰の歩みの第一歩が、ここから始まります。



 アブラハムとサライ、この夫婦には子どもがいませんでした。妻サライは不妊の女で…とあります。当時、後継ぎが生まれないということは大変深刻な問題でした。アブラハムはすでに75歳、サライは65歳。彼らは自分たちの将来に希望が持てない、そのような状況にありました。



 そこに突然、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。」(12:1)と、神の言葉が臨みました。親類縁者がいる住み慣れた土地という、安心できる環境を離れて、見知らぬ土地へ向かうというのは、どんなに勇気がいることだったでしょう。「主の言葉に従って旅立った。」(12:4)アブラハムは信仰の決断をしました。そして、この選びの目的は、アブラハムが祝福の源となること、アブラハムを通して神様の祝福が世界に広がっていくことにありました。



 ヘブライ人への手紙11章には、信仰によってアブラハムは行先も知らずに出発をした、とあります。神様の導きに従い、信仰をもって一歩踏み出すとき、多くの恵み、祝福が待っていることを覚えたいと思います。
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