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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2023年12月31日 
「まことの光」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章6−13節



 ヨハネによる福音書の1章には、マリアやヨセフは登場しません。そうした降誕物語の代わりに、すべての人を照らすまことの光として救い主イエス・キリストが来られたことを記しています。



 12月25日がイエス・キリストの誕生日を祝う日に定められたのは、紀元4世紀頃だといいます。その日は「冬至の祭り」が祝われる日でもありました。ヨーロッパの冬は晴れる日が少なく、この長い重苦しい天候が続く影響を受けて「冬期鬱」と言う、心の不調を覚える方もいるとのことです。天候だけではなく、わたしたちそれぞれの人生の中に於いても、重苦しい気持ちが続くという時期を過ごすことがあるのではないでしょうか。心が揺れ動きながら歩んでいるようなとき、イエス・キリストはわたしたちの足もとを照らす確かな光であり、また寄り添って共に歩んでくださる光であることを覚えます。



 「しかし、彼を受け入れた者、すなわちその名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(口語訳聖書12節)

 「力」という言葉は権利、権威と訳されます。わたしたちが救われるためには、何か資格が必要なわけではありません。ただイエスを自分の救い主として信じる人には、神の子となる特権が与えられるのです。マルチン・ルターは熱心に修道生活を送りましたが、そのことによっては心の平安が得られませんでした。「正しい者は信仰によって生きる」(ローマの信徒への手紙1:17)この言葉が彼にとって光となりました。人は、努力して、できる限り善い行いをするということによっては、神の前に正しいとは認められない。ただ、イエスを信じるその信仰によってのみ、正しいものとされる。この理解が与えられ、ルターは初めて心に平安が与えられました。イエス・キリストご自身がまことの光であり、また聖書の言葉はわたしたちを導く光であります。
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 2023年12月24日 
「飼い葉桶に」加藤豊子牧師
ルカによる福音祖2章1−7節



 「住民登録をせよ」との皇帝アウグストゥスの勅令を受け、ユダヤの人々はそれぞれ生まれ故郷に帰ることになりました。ガリラヤの町ナザレからダビデの町ベツレヘムまで、およそ10キロはある道のりです。身ごもっていた妻マリアを連れての旅は、ゆっくり進むしかない、困難なものだったと想像されます。



 そしてやっとのことでベツレヘムの町に着いてみれば、宿屋には空いている部屋がありませんでした。「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(6節)とあります。どのような状況だったのか、旅人を運んできた馬やろばの餌を入れる飼い葉桶だったのかもしれません。そのような貧しく暗い、とても美しいとは言えないところに、神の子イエス・キリスト、真の王であるお方がお生まれになったのです。



 昨年のクリスマス礼拝では、どこからお話がされていたのかと、1年前の週報を見ていました。すると、今日と聖書箇所が全く同じでした。「ダビデの町」という説教題で語られた、故加藤 誠牧師の説教要旨後半を、記載させていただきます。



 『岡山の田舎では山羊を飼っていた。ミルクといえば山羊のミルクであった。しかしそこで寝るのは余りに不潔であり、どんな親でも飼い葉桶に生まれたばかりの赤ん坊を寝かせたりはしない。季節は分からないが、ひょっとしたら飼い葉桶が唯一風を避けられたのかも知れない。中一の冬に初めて家出をしたが、寒さと空腹は忘れない。コンビニもない時代であった。地下の倉庫に潜り込み、真っ暗闇の中孤独であったし、誰からも理解されないと思っていた。しかしそれは間違いであった。飼い葉桶の中の主イエスだからこそ人の孤独をご存知である。』



 わたしたちのために、飼い葉桶に生まれてくださった救い主イエス・キリストに、心から感謝をささげたいと思います。
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 2023年12月17日 
「星に導かれ」加藤豊子牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 「占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て」(1節)とあります。彼らがどこの国の人だったのか、わかりません。また「占星術」というのは、旧約聖書を読むと神様がいとわれ、禁じられた行為だったことがわかります。救い主、真の王の誕生を知らされたのは、遠い外国に住む、占星術の学者たちでした。神様から最も遠い所にいるような人々が、星に導かれてやってきたのです。



 彼らを導いた星が何だったのか。イエス様が誕生した頃に通過したという彗星だったのではないかという人もあり、昔から様々言われていますがこれもわかりません。ただ「先立って進み」という、この言葉が示していることは、そこに神様の選び、導きがあったということではないでしょうか。神様からほど遠い、全く関係のない生活をしていた彼らがあえて選ばれ、導かれたのです。ユダヤ人だけではない、世界中すべての人のために救い主イエス・キリストが誕生されたことをこの出来事は示しています。



 博士たちがささげた贈り物「黄金」は王にささげられるもの、「乳香」は神にささげられるもの、そして「没薬」は死にゆく者にささげられるものだと言います。イエス様が埋葬されるとき、ニコデモが携えていたのはこの没薬でした。イエス・キリストは、罪人を救うために来られ、十字架に向かって歩まれたのだということがこの贈り物にも表されています。



 占星術の学者たちはこの後どうなったのか、聖書には何も記されていません。ただ「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(12節)とあります。彼らは占星術を生業として生きてきたわけですが、救い主との出会いを通して占いに頼る生き方を捨て、真の神を信頼して生きる、新しい生き方へと変えられたのではないでしょうか。イエス様に出会った者は、その生き方を変えられるのです。
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 2023年12月10日 
「神は我々と共に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−25



 ここには先ず、ヨセフが登場します。マリアと婚約中だったヨセフは、まだ結婚する前にマリアが身ごもったことを知ります。これは当時のルールでは死罪に値するようなことでした。正しい人でありマリアのことを大切に思っていたヨセフは、彼女を守るために密に離縁する決心します。すると夢の中で天使がこう告げたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)頭では、理性ではとても受け入れられないことです。しかしヨセフはその言葉を、神の言葉として信じ受け入れました。



 イエス・キリストの系図には、隠しておきたいこと、恥と思われることも記されていました。人間が罪に罪を重ねて歩んできた歴史であり、また失敗を繰り返してきた歴史でありました。そうした人間の罪と愚かさの長い歴史の先に、救い主イエス・キリストが誕生したことが示されています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」(22節)クリスマスの出来事は、旧約の歴史と切り離されて、ある日突然起こったのではありません。預言者たちによって語られた神の言葉の実現として与えられたことなのです。



 「その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。」(23節)ヨセフが直面した孤立、孤独を思わされます。それは混乱、戸惑いであり、不安でしかなかったでしょう。誰にも相談できない、一人で抱えるしかない事柄だったと思います。わたしたちも、そのような状況に置かれることがあるかもしれません。しかし、どのような中でもイエス・キリストは、わたしたちと共におられるのです。
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 2023年12月3日 
「イエス・キリストの系図」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章1−11節



 アドベント第一主日を迎えました。今朝は、マタイによる福音書1章1節から、暫く読んでいただきました。教会に初めて来て、聖書を読んでみようかと思われて、いざ新約聖書の最初から読み始めると先ず驚く、というよりもつまづくことになりそうな箇所です。



 これは、1節にあるように「イエス・キリストの系図」です。ユダヤ人は系図を重んじ、自分が純粋なユダヤ人出身であることを誇りに思う民族です。「アブラハムの子ダビデの子」とあります。信仰の父アブラハム、そして一番尊敬されているダビデ王の子孫であるということは、立派な家系の延長線上にイエス・キリストが誕生されたことが示されています。



 しかし、よくよくこの系図を見ていくと、由緒正しいというには相応しくない人物が載っているのがわかります。それはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻という4人の女性たちです。ダビデ王はウリヤの妻であるバテシバが美しいのを見て、彼女を自分のものにするためにその夫ウリヤをわざと戦いの最前線に送り出すように手配し、死に追いやったことが記されています。



 イエス・キリストの系図には、そうした恥ずかしい、隠しておきたいような汚点が記されているのです。人間の営みは、罪を重ねて歩んできた歴史であり、愚かな失敗を繰り返してきたのだということが示されています。イスラエルの国は滅び、バビロン捕囚があり、大国に支配されるようになります。しかし、下へ降っていったそのどん底のようなところにイエス・キリストは、わたしたちの真の救い主として、誕生されたのです。
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