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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年1月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2024年1月28日 
「知っておられる主」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書2章23−25節



 「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(25節)

 詩編139篇には「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。遠くからわたしの計らいを悟っておられる。…わたしの舌がまだ一言も語らぬ先に 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」と語られています。人に理解されないつらさを抱えているようなときには、神様だけは知っていてくださるということは、慰めでもあります。しかしまた、誰にも知られたくない、隠しておきたいと思うことを、わたしたちは皆抱えているわけです。そして神様の前には隠し事はできない、主はすべてを知っておられるというのは、少しドキッとする、緊張感を覚えることでもあります。



 「…そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」(23,24節)

 しるしを見て、素晴らしいと思って信じた信仰…それは自分にとって良いとは思えない、意味がないというようなことが起こったら、いとも簡単に離れてしまうという、身勝手な信仰ではないでしょうか。この後多くの弟子たちが、イエス様のもとを去って行ったことが語られています。神様は、わたしたち人間がどのような者であるかをよくご存知の上で、その独り子をお与えになるほどにわたしたちを愛して下さったのです。



 主イエスはよみがえられた後、弟子たちに「わたしもあなた方を遣わす」と言われました。弟子たちを信頼し、信用して福音宣教のために遣わされた主は、わたしたちのことも信頼して、用いようとしてくださいます。
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 2024年1月21日 
「わたしの父の家」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書2章13−22節



 今朝読んでいただいたところには、「宮きよめ」と呼ばれる出来事が記されています。ここに出てくる神殿は、ヘロデ大王によって建てられたものです。「建てるのに46年もかかったのに」(20節)とありますが、実際にはまだ建築中で、はるか遠くからでも光り輝く大理石が見えたといいます。神殿はいつの時代もユダヤ人の心の支えであり、また神様と神の民が出会う大切な場所でもありました。



 その境内で、牛や羊、鳩を売っている者たちと座って両替をしている者たちをご覧になって、主イエスは縄で鞭を作って彼らを追い出し「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と激しい怒りを表されました。高い手数料をとって儲けていたことへの怒りであり、また礼拝を妨げていることへの怒りもありました。



 この様子を見ていたユダヤ人たちは、主イエスに迫ります。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(18節)主イエスは答えられました、「この神殿を壊して見よ。三日で建て直してみせる」(19節) イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだった、と記されています。



 エルサレムの神殿の一番奥には至聖所と呼ばれる所がありました。大祭司だけが年に一度入ることができ、そこで民の罪の赦しのために執り成しがなされました。しかし今や、イエス・キリストが来られ、ご自身が神殿、至聖所となってくださるのです。ささげられたのは、イエス様ご自身の体でした。そして「三日で建て直す」という言葉どおりに、神の力によって罪と死の力に勝ち、よみがえられたのです。わたしたちは主イエスを通して神と結びつくことができるのです。そこにわたしたちの救いと希望があることを覚えます。
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 2024年1月14日 
「最初のしるし」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書2章1−11節



 婚礼の場で「ぶどう酒がなくなりました」という母マリアの言葉に対し、主イエスは「わたしの時はまだ来ていません」と答えられました。「わたしの時」…これは、神の栄光を表すとき、十字架に架かられ、救いの業を成し遂げられる時を示していました。母マリアはその言葉の意味を理解できなかったしょう。それでも召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください、」と頼みます。主イエスは「水がめに水をいっぱい入れなさい」と召使たちに命じられました。



 そこには、100リットルは入る大きな水がめが6個置いてありました。水を汲んですべてを水で満たすのは、大変な作業だったと思われます。そして世話役がその水を味見すると、ぶどう酒に変わっていたとい、驚くべきことが起こりました。これは、主イエスの行われた最初のしるしであった、と記されています。



 しるしとは、イエス・キリストがどのようなお方であるかを示すものです。大きな水がめは、ユダヤ人がけがれを清めるために使われるものでした。異邦人が触れたものによって自らをけがすことがないように、律法の定めにしたがって手を洗っていました。それは、旧約の律法に従う、古い生き方を示していると言えます。そしてぶどう酒からわたしたちが思い浮かべるのは、聖餐式で用いられるものです。それは主イエスの十字架を通して与えられる救いの恵みを覚えるものです。古い生き方から新しい生き方へ、律法から福音へとわたしたちを招くためにイエス・キリストが来られたことを表しているのです。



 大きな水かめいっぱいに、ぶどう酒があふれたように、主イエスを通して与えられる喜び、希望、命、救いの恵みはあふれているのです。
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 2024年1月7日 
「神の子羊」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書1章29−34節



 洗礼者ヨハネは、ユダヤの人々に、罪を悔い改めて洗礼を受けることを求めていました。生まれながらの神の民であると自負するユダヤ人は、自分たちは洗礼を受ける必要がないと思っていました。しかしヨハネは、ユダヤ人こそ洗礼を受けるべきだと勧め、ヨハネがそういう活動を始めると、次々とヨハネのもとに人が集まり、罪を告白して洗礼を受けました。それを知ったエルサレムの指導者たちは、心穏やかではありませんでした。人を遣わして「あなたは、どなたですか。」と尋ねています。



 ヨハネは自分のことを「荒れ野で叫ぶ声である。」と言い、またイエスが来られるのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」と、この方こそ救い主であると指し示しました。



 「世の罪を取り除く神の子羊」…この言葉は、イザヤ53章の苦難の僕の姿を思い起こさせます。「屠り場に引かれる子羊のように…」とわたしたちのために苦難の道を歩まれた主イエスの姿がそこに重なって見えます。わたしたちの罪を取り除く、わたしたちが受けるべき罪の罰を代わりに担ってくださる救い主の姿がそこにあります。



 昨日、公現日に、4年ぶりに東京シロアム会という盲人の方々のクリスマス会が開かれました。コロナで4年もの間行うことが出来なかったわけですが、久しぶりに集まれたことを皆さん喜んでおられました。しかしまた、4年の月日の流れを感じるときでもありました。以前はお元気に活動されていた方が、車椅子を使用されていたり、それぞれに年を重ね、様々なことを通されてきたことを思わされました。



 新年早々地震があり、事故があり…この一年はどうなっていくのだろうかと思わされるような中ですが、主の助けを祈り求めつつ、救い主イエス・キリストを見上げて歩ませていただきたいと願います。
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