シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2024年4月 | 7日 | 14日 | 21日 | 28日 | 目次に戻る |
2024年4月28日 |
「永遠の命の言葉」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書6章60−71節 |
◇ 弟子たちの多くの者が、イエスの話を聞いて「実にひどい話だ」と言ってイエスのもとを去り、離れて行ったということが書かれてあります。5千人の給食の出来事の後、人々はイエスを探し求め後を追いかけてきました。ところがそのすぐ後に、多くの弟子が離れ去ったということが起こったのです。 ◇ イエス様のお話のどこに、どの言葉に人々はつまづいたのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスが「わたしは天から降ってきたパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始めた、とあります。イエス様が自分のことを、神と等しいものとしているということに、大きくつまづいたのだと思われます。 ◇ 人々はイエス様に、何を期待していたのでしょうか。よくモーセのことが引用されていますが、モーセはエジプトの支配からイスラエルの民を解放するための指導者であり、荒野の旅の途中では、神に願って、マンナというパンを与えました。モーセのような力強い指導者であることを、人々は主イエスに期待したのです。 ◇ 主イエスは弟子たちに、「あなたがたも、離れて行きたいか」と問われました。この問いかけは、いつの時代も様々なことでつまづく私たちにも向けられているのではないでしょうか。 ◇ イエス・キリストは神から遣わされた者、神の子であって、天から降ってきた命のパンです。イエスご自身が命のパンであり、人間の罪の罰を代わりに受けて十字架の上でそのみ体は裂かれました。そして、イエスを救い主と信じる者には、永遠の命が与えられるのです。そこに、わたしたちに対する神の愛があらわされているのです。 |
2024年4月21日 |
「命のパン」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書6章22−33節 |
◇ ヨハネによる福音書6章は、大変長い箇所ですが、22節−59節までは一つのまとまったお話となっています。テーマははっきりしていて「命のパン」、イエス・キリストご自身が命のパンであるということが語られています。 ◇ 「五千人の給食」という出来事の後、弟子たちだけで舟に乗り、先に出発したところ途中嵐に襲われました。そこへ、主イエスが近づき「わたしだ。恐れることはない。」と言われ舟に乗り込まれると、間もなく舟は目指す地カファルナウムへ到着。そのとき群衆は、まだ湖の反対側に留まっていたわけです。そして主イエスと弟子たちがそこにはいないと知ると、イエスを探し求め舟に乗り追いかけてきました。 ◇ 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満足したからだ。」(26節) 当時は日々のパンを手に入れるのにも苦労する多くの貧しい人々がいました。さらにもっと自分たちの願いをかなえてほしいと期待する者もいたでしょう。自分たちの王となって、ローマからの支配から解放してほしいと、主イエスに期待する者もいました。 ◇ 「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降ってきて、世に命を与えるものである。」(33節) 「聖餐式」のことを「パン裂き」と呼ぶことがあります。実際にその場でパンを裂いて配ることもありました。パンが裂かれるように、主イエスのみ体は十字架の上で裂かれ、また血が流されました。それはわたしたちの罪の赦しのため、真の命を与えるためでありました。わたしたちにとっての最高の幸福は、神を知ることである。(カルヴァン)知るというのは、単に知識を得るということではありません。深く関わる、体験することです。神の愛を知るものとなるように、わたしたちは招かれています。 |
2024年4月14日 |
「恐れることはない」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書6章16−21節 |
◇ 五千人の給食と呼ばれる出来事の、すぐ後のことです。弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸、カファルナウムに行こうとしました。そのとき、主イエスは一緒におられませんでした。何故ならば、人々が主イエスを王にしよう押しかけて来ているのを知って、一人山に退かれたからでした。マタイの聖書箇所を読むと、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、先に向こう岸へ行かせ」とあります。「強いて」という言葉が使われています。イエス様の方から弟子たちに、先に舟に乗っていくようにと命じられたとするなら、イエス様の言う通りにしたその先で、思いがけない嵐に遭遇したことになります。 ◇ マタイやマルコを読むと、湖上を歩くイエスを見て「幽霊だ」と言って恐れる弟子たち、怖くなって沈みかけたペトロの姿などが記されていますが、ヨハネは短く、この出来事を伝えています。 ◇ 主イエスは弟子たちに「わたしだ。恐れることはない」と言われました。「わたしだ」という言葉。これはギリシャ語で「エゴ―・エイミー」英語では「I am」であり、わたしだ、わたしであるという意味です。この言葉は、ヨハネによる福音書に何度か出てきます。出エジプト記3章のモーセの召命と呼ばれる出来事の中でも、モーセから名前を問われた神様が「わたしはある。わたしはあるというものだ」と答えられたと記されていますが、この「わたしはある」という言葉をギリシャ語にすると「エゴー・エイミー」となります。 ◇ 弟子たちが、主イエスの声に従っていく中で思いがけない嵐に見舞われたように、わたしたちもまた、想像もしていないような出来事、思いがけない病や経済的な困難、どうにもならない嵐のような状況に遭遇することあるかもしれません。しかし主は、「わたしだ。恐れることはない」と宣言してくださるお方であることを、感謝を持って覚えたいと思います。 |
2024年4月7日 |
「パンを分け与え」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書6章1−15節 |
◇ 「五千人の給食」と呼ばれる、有名なお話です。四福音書すべてに記されており、それだけ初代のキリスト者たちが、教会が大切にしてきたお話です。イエス・キリストがパンを与えて、多くの人々の空腹を満たしてくださったということが記されていますが、それだけではなくイエス・キリストご自身が「命のパン」であるということが示されています。 ◇ 主イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と弟子のフィリポに問います。男だけで五千人、女性と子どもを合わせれば一万人はいる群衆を前にして、答えようのない質問です。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と言います。1デナリオンは当時の一日の賃金ですから、200万円分位のパンということになります。フィリポの答えは、「とても対応できません」ということです。 ◇ ペトロの兄弟アンデレがこう言いました。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」五つのパンと二匹の魚を持っていたのが少年だった、と記しているのはヨハネによる福音書だけです。一万人以上の群衆に対して、そこにあるのは五つのパンと二匹の魚のみ、そしてそれを持っていたのが少年という、さらに小さなもの、弱きもの、何の役にもたちそうもない者であったということが示されています。そして主イエスが祝福して分け与えられると、人々は満腹したという驚くべきことが起こったと、聖書は伝えています。 ◇ わたしたちは主の前に、自分は小さく弱いもので、何もよいものは持っていませんと言いたくなるのかもしれません。しかし主は、ささげられたものがわずかなようなものでも、それを祝福し豊かな神の御業のために用いてくださるお方なのです |