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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2024年5月26日 
「真理は自由へ」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書8章31−38節



 「真理はあなたたちを自由にする。」(32節)

 今朝読んでいただいた箇所で、一番有名な聖句だと思います。この言葉は、国立国会図書館にも、ギリシャ語の本文と共に掲げられています。「真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される」と国会図書館法の前文に設立理念が記されているそうですが、この言葉が聖書の言葉からの引用だということは、意味のあることだろうと思います。



 しかし、イエス・キリストが語られた「真理」というものは、人が図書館などで探究、追及して見出せるようなものではありません。主イエスはヨハネによる福音書14章で、わたしは「真理」である。と語られました。英語の聖書ではthe truth 真理の中の真理である、ということです。イエス・キリストご自身が真理であり、だれでもイエス・キリストによらなければ、父なる神様のもとに行くことはできないと語られています。



 「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」

 自分たちは今まで誰かの奴隷になったことはありません、とユダヤ人たちは反発しましたが、主イエスはここで、すべての人は罪を犯すものであり、罪の奴隷になっているのだと明言されているのです。



 「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」(31節)

 わたしたちはイエス・キリストによって、罪の支配から自由にされ、キリストのものとされました。しかし日々様々な誘惑に遭い、未だに罪を犯し、失敗することも多い者です。主イエスの言葉にとどまる、とどまり続けるならば、わたしたちは真の弟子である、と約束されています。
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 2024年5月19日 
「世の光」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書8章12−20節



 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(12節)

 仮庵の祭りというユダヤの祭りが行われている中で、主イエスが語られた言葉です。仮庵祭とは、昔モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民が、40年間荒野を旅したという、その苦難の旅路を覚える祭りでした。荒野の旅では家を建てて定住することはできず、仮庵、すなわち仮小屋のようなものに住んで、彼らは旅を続けたわけです。



 その祭りの中で、エルサレムの神殿に4本の大きな燭台が立てられ火が灯されました。梯子をかけて上るほどの高さがあったそうですが、その光はエルサレムの町中から見ることができたといいます。この大きな燭台は、「夜は火の柱をもって彼らを照らされた」という、あの荒野の旅での神の守り、救いを示すものでした。

 そのような光が掲げられる中で、主イエスはわたしこそが、この世を照らすまことの光である、と宣言されたのです。



 主イエスに従うならば、暗闇がなくなる、消滅するというわけではありません。わたしたちを取り囲む闇は依然としてあります。人間の抱える罪深さ、闇の深さがわたしたちの外に、また内側に広がっています。しかし、そのような闇の中でも、イエス・キリストの光は輝き、わたしたちはキリストと共に歩むもの、命の光を持つものとされるのです。



 今日は聖霊降臨日。約束の言葉を信じて祈り待ち望んでいた人々の上に、聖霊が注がれて力強く主を証するものとされ、教会が誕生しました。そこから2千年以上の教会の歩みが受け継がれてきましたが、それはイエス・キリストの光を指し示す歩みなのです。
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 2024年5月12日 
「主イエスの問い」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書8章1−11節



 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました、こういう女は石で打ち殺せ、とモーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(4.5節)

 「イエスを試して、訴える口実をえるために、」とあるように、この質問は主イエスを陥れるためになされたものであり、この女性はそのための材料に過ぎませんでした。



 ここでもし、主イエスが「この女性を赦すように」と言ったとしたら、モーセの律法を破るものだということで、ユダヤの議会に訴えることができます。反対に「この女性を、律法にある通りに殺すように」ということを言ったら、今まで主イエスが人々に語ってきた神の愛と赦しのメッセ―ジと矛盾することになります。どちらを答えても、イエスを追い詰めることができるという質問、罠でありました。



 主イエスはかがみこみ、指で地面に何かを書いておられました。何を書かれていたのかはわかりません。大切なことは、ただ一人主イエスだけが、裁かれ、さらし者にされているこの女性と同じ立場、同じところに身を置いておられるということです。



 「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(7節)

 主イエスのこの一言は、その場の雰囲気を一瞬で変えたことでしょう。年長者から始まって一人また一人とその場を去って行き、主イエスとこの女性だけが残されました。



 「あなたを罪に定めない。」この言葉を宣言できるのはただ一人、イエス・キリストだけです。あの十字架の上で、すべての人の罪の罰を代わりに受けてくださったお方だからこそ、わたしたちに対して「罪に定めない」と罪の赦しの宣言をすることができるのです。
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 2024年5月5日 
「イエスを見つめて」加藤豊子牧師
ヘブライ人への手紙12章1−6節



 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(1節)

 今朝は、2024年度、主題聖句を読んでいただきました。前の11章には、「証人」として旧約聖書に登場する数々の信仰の偉人たちが名を連ねています。「アブラハムは信仰によって、行く先も知らずに出発した。」「モーセは信仰によって、まるで陸地を通るように紅海を渡った。」「信仰によって…」という言葉が繰り返されています。



 「群れ」、ギリシャ語の「ネフォス」という言葉は雲を意味しています。口語訳聖書では「多くの証人に雲のように囲まれているのだから…」とあります。旧約の信仰の偉人たちだけではなく、教会の2千年の歴史の中で信仰の歩みをつないできた多くの方々、わたしたちそれぞれが思い起こす信仰の先達たち、それらの方々が、空に浮かぶ雲のように私たちに示されています。



 「すべての重荷や、絡みつく罪をかなぐり捨てて」とあります。信仰の歩みの妨げとなる重荷や絡みつく罪が具体的に何を指すのか、それぞれに異なるでしょうが、自分自身を顧みて信仰の歩みの妨げとなっているのものがないかどうか、と思わされます。ある人は、「絡みつくという言葉は、長い外套を着ているかのようにわたしたちの歩みを妨げる罪の性格をよく説明している」と語っています。



 「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら」励ましの言葉が与えられています。わたしたちのすべてをご存知のお方が、それぞれの信仰の歩みを完成へと導いてくださるのです。
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