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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2024年6月30日 
「ナルドの香油」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書12章1−8節



 「過越祭の六日前に」とあるように、イエス様が十字架に架かられるそのときが、近づいていました。主イエスがラザロを生き返らせてくださったという出来事は、周りに大きな影響を与えました。ファリサイ派の人々は危機感をつのらせ、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」とあります。イエスを逮捕するようにとの命令が出され、もはや公然とは外を歩けない状況になりました。



 マリアがイエスに塗ったのは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラでした。純度の高い、混じりけのない香油で、およそ300gの量を惜しげもなく塗ったのです。その香りは、部屋いっぱいに広がったことと思います。ユダは、どうして貧しい人のためにその香油を売って使わなかったのかとマリアを責めましたが、彼は盗人であって預かっているお金をごまかしていた、とあります。人は何か心にやましいことがあると、却って自分のことを棚にあげて正論を言い、他者を厳しく批判したりするのかもしれません。



 イエス様は「わたしの葬りの日のために、彼女はそれを取って置いたのだ」と言われました。香油は死者を葬るときに使われます。彼女のささげものは、これから十字架へと向かわれるイエス様に対する、最もふさわしいささげものとなりました。



 マルコによる福音書を見ると、イエス様はマリアの行為に対して「わたしに良いことをしてくれたのだ」と言われました。「良いこと」は「美しい行い」とも訳すことができます。この場面は、イエス様に対する悪意、陰謀が渦巻いているという状況です。その中で、マリアの捧げものは純粋で大変美しいものだったことが示されています。



 ある人が「主イエスに香油を注いだ女性に象徴されているのは、まさに教会である」と言いました。いつの時代もこの世にある教会は、様々な悪意、策略が渦巻いているような中で、キリストの光を掲げ、美しいと言われるものを神にささげる存在なのだと思います。
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 2024年6月23日 
「生きる者へ」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書11章7−27節



 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」マルタとマリアから、兄弟ラザロが病気であるとの知らせが届きました。一刻も早く来て、助けてほしい、そう願ったでしょうが、主イエスはその場を動かれず、二日間同じところに滞在されました。イエス様はラザロの死をはっきりとご存知で、またご自分がなさろうとしていることも分かっておられました。



 主イエスが到着されたとき、多くのユダヤ人がラザロの死を悼み、二人の姉妹を慰めようと集まっていました。悲しみのただ中にあるマルタに、主イエスは言われました、「あなたの兄弟は復活する。」この「復活」とはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人々は律法を守ることに厳格でした。そして神の前に義しく生きた者は終わりの日に復活する、そのように信じられていました。



 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」復活とは、遠い先の話ではない。将来そうなるだろう、ということではなく、わたし自身が復活であり、命である。そう宣言されたのです。イエスを信じる者は、イエスと一つにされ、イエスの命、復活の命の中に生かされているのです。



 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)

 イエス・キリストを信じるとは、キリストに結ばれる、すべてキリストのものとされるということです。キリストの命、復活の命は信じる者にすでに与えられているのです。



 人生において、次から次へと問題が起こってくる…そのように思うかもしれません。しかし何が起ころうとも、わたしたちはキリストのものであり、何ものも、わたしたちからキリストの愛を奪うことはできないのです。
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 2024年6月16日 
「良い羊飼い」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書10章7−18節



 旧約聖書では、神様とイスラエルの民の関係が、羊飼いと羊に例えられています。ヨハネによる福音書10章では、イエス・キリストご自身が良い羊飼いに例えられています。良い羊飼いである主イエスは、羊であるわたしたち一人一人のことをよく知り、また羊のために命を捨てるお方、すなわち十字架において、ご自身を人々の罪の贖いのために捧げてくださった救い主です。



 盗人や強盗のように、柵を乗り越えて入り込み、羊を奪おうとするものがいることも語られています。主イエスを受け入れないファリサイ派の人々の姿がそこに重ねられますが、いつの時代にも群れに入り込み惑わすものが現れます。



 「羊はその声を知っている。」「羊はその声を聞き分ける。」とあります。羊であるわたしたちが、声を聞き分ける耳を持っているか、ということも問われているように思います。正しい羊飼いの声を聞き分ける耳…それは聖書を聖霊の導きの中で正しく読む、祈る、そうした信仰生活の積み重ねを通して養われていくものではないでしょうか。



 牧師のことを英語でPastorと言います。羊を養うというラテン語から生まれた言葉ですが、牧師に与えられた務めは羊飼いに似ています。エゼキエル書34章では、民の指導者たちに向けて「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。お前たちは群れを養おうとしない」と神様から厳しい言葉が語られています。



 「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。」(16節)

 主イエスの眼差しは、囲いの外にいる、ユダヤ人の交わりの外にいる人々にも向けられていました。主イエスのその思いは、今わたしたちに託されています。
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 2024年6月9日 
「見えるように」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書9章35−41節



 シロアムの池で、主イエスによって目が見えるようになった人は、その後どうなったでしょうか。その人は先ずファリサイ派の人々のところに連れて行かれ、「どうして見えるようになったのか」と聞かれました。彼らの中には、安息日の規定を破った主イエスを罪人とみなし、神から遣わされた方であることを認めない人たちもいました。さらにこの人の両親が連れてこられ、本当に生まれつき目が見えなかったのか、などと問われました。両親はユダヤ人たちを恐れ、「どうして今、目が見えるようになったのか、誰がそうしてくれたのか、わたしたちにはわかりません」と逃げるような返答をしました。



 「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」そう答えた彼は、ついにユダヤ人の会堂から追放され、そこに主イエスが会いに来られたのです。主イエスはご自身が人の子、救い主であることを示され、彼は「主よ信じます」と言ってひざまずき、礼拝しました。イエスが救い主であることを知り、心の目が開かれてイエスを見る者とされたのです。



 「わたしがこの世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」(39節)

 「裁く」という言葉の意味は、分ける、分割するということです。主イエスがこの世に来てくださったことによって、イエス・キリストが誰であるかが見える者と見えない者に分かれる、そういうことが起きるということです。ファリサイ派の人たちは、自分たちは見えている、分かっている、自分たちこそ正しい者だ、そう思っていました。しかし、イエスが救い主であることは見えなかったのです。自分は見える、正しいと言い張るところに、実は罪があるのだと主イエスは言われます。こうしたかたくなさが、真実を見る目を曇らせるということは、わたしたちにも言えることではないでしょうか。
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 2024年6月2日 
「神の業が現れるため」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書9章1−12節



 ヨハネによる福音書9章は、わたしたちの教会、シロアム教会の名前の由来ともなった「シロアムの池」が出てくるところです。 イエス様は通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。弟子たちはこの人を見て主イエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪をおかしたからですか。本人ですか。それとも両親ですか。



 昔も今も、このような因果応報的な考え方というのは根強くあるのではないでしょうか。人は、良い行いをすれば良い報いがあり、反対に悪い行いをすれば悪い報いがある、ということです。もとは仏教用語で、行為の善悪に応じて、その報いがあるということですが、悪い方に使われることが多い言葉です。現在身にふりかかっている不幸、なんで私がこんなことに…という思い、その原因を過去に求め、親が、先祖が悪かったのでは、と考える。そして、そういうところにつけ込んで、高額なツボを売りつけたりと、とても宗教とは言えない霊感商法のようなものが後を絶たないわけです。



 イエス・キリストはここで、はっきりとそのような考え方を否定されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)主イエスは過去ではなく、神の栄光、すばらしさがその人を通してあらわされると、未来に目を向けられました。今まで多くの人々が、この主イエスの言葉に慰めを与えられ、希望の光を見出したことを思わされます。



 「シロアム」という言葉は「遣わされた者」という意味です。誰が誰を遣わしたのか…神様が、イエス・キリストをこの世に遣わされたのです。シロアムの池に行って目が見えるようになったということは、イエス・キリストのところに行くならば、そこに救いがある、イエス・キリストこそ真の救い主であるということを指し示しているのです。
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