シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2024年10月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
2024年10月27日 |
「あなたへの呼びかけ」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書21章20−25節 |
◇ ヨハネによる福音書からのお話は、今回が最後となります。先週は、主イエスが3度「わたしを愛しているか」とペトロに問いかけられ、ペトロが「あなたは何もかもご存知です。」と言って、主に従ったことが語られていました。 ◇ そのすぐ後のことです。ペトロが後ろを振り向くと、主イエスが愛しておられた弟子がついてくるのが見えました。ペトロは尋ねます。「主よ、この人はどうなのでしょうか」主イエスに従うとき、イエス様だけを見ていればいいのでしょうが、わたしたちはやはり自分の横にいる人、他の人はどうなのか…ということが気になってしまうのです。そのような、つい自分と他人を比べてしまうわたしたちの姿が、ここに映し出されています。 ◇ 「あなたは、わたしに従いなさい。」と主イエスは言われました。わたしたち一人一人は、与えられている賜物も、また託されている働きいも違います。どのような道を歩み、どのような最後を迎えるのか…誰にもわかりません。しかし主は、御声に従う者に歩むべき道を備え、そこに神様の栄光をあらわしてくださるのです。 ◇ ペトロは大きな失敗をし、挫折を経験し、自分の弱さに泣きました。しかし主イエスはそのペトロを癒し、神様の御用のために新たに召し、そして御手の中で造り変え用いられたのです。神様はわたしたちを過去からご覧になって、その罪をいつまでも問われるお方ではありません。その人を新しい存在へと造り変え、神様のご計画の中で用いてくださるお方です。不思議なことに、忘れ去りたいような経験も、主は御用のために生かしてくださるお方です。わたしたちは誰でも、主イエスにあって再出発することができることを、感謝したいと思います。 |
2024年10月20日 |
「愛の問いかけ」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書21章15−19節 |
◇ 昨年12月より、ヨハネによる福音書を読み進んできましたが、残り僅かとなりました。よみがえられたイエス・キリストが天に昇られる前、最後にペトロと交わした会話となります。主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と3回問われました。「わたしを信じるか」ではなく「わたしを愛するか」と問われています。 ◇ 主イエスが十字架に架かられる前、弟子たちにこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく。」それを聞いてペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」そうはっきり宣言しました。しかし主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われたのです。ペトロはさらに力を込めて言い張りました。「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」自信たっぷりに答えたペトロはこの後、主イエスが言われた通り3度「知らない」と言ってしまうのです。 ◇ 主イエスがここで3回もペトロに「愛しているか」と問われたのは、やはりもう一度そのことに向き合うようにされたのだと思います。「ペトロは、悲しくなった」とありますが、これは主イエスに指摘され、叱られているようで悲しくなったということではないように思います。ペトロは自分自身を見て、我が身を振り返ってその情けない姿を思いおこして「悲しくなった」のではないでしょうか。プライドは見事に砕かれ、自分は何と情けないダメな人間なのだろうかと。本当の姿を知らされて悲しむ…この悲しみ、挫折は、主の前に意味のあるものでした。 ◇ 「主よ、あなたは何もかもご存知です。」ペトロはすべてをゆだね、「わたしの羊を飼いなさい」と言われる主イエスに従ったのです。 |
2024年10月13日 |
「信じる者の幸い」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書20章19−29節 |
◇ マグダラのマリアが主イエスの墓に駆けつけた、その日の夕方のことです。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました。主イエスを捕らえたユダヤ人たちが、自分たちのことも捕らえに来るのではないか…そう考えておびえていたのだと思われます。 ◇ 「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」(19節) 主イエスはご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを責める、叱る言葉は一切話されず、ただ「平和があるように」と言われ、弟子たちの真ん中に立たれました。「平和があるように」…この言葉はヘブル語の「シャローム」という挨拶の言葉です。そしてその言葉には、神が共におられる平和というものが示されています。 ◇ 弟子の一人トマスは、その場にいませんでした。そして「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い、「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの言葉を全く受け入れませんでした。疑い深いトマス、とよく言われますが、わたしたちも同じではないでしょうか。自分の目で確かめるまでは信じないというのは、自分の判断力、価値観というものを優先している姿勢です。そこに主イエスがおられるのに、語っておられるのに、わたしたちには見えない、聞こえないということがあるのではないかと思わされます。 ◇ 「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり…彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(イザヤ書53:5) 主イエスの十字架を通して、わたしたちは神との間に平和が与えられました。信じる者になりなさい、と主イエスは今も招いておられます。 |
2024年10月6日 |
「マリアの涙」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書20章11−18節 |
◇ 「マリアは墓の外に立って泣いていた。」(11節) マリアはどれだけの涙を流したことでしょうか。墓の前だけではありません。イエスが捕らえられたときも、十字架にはり付けにされ苦しまれているときも、涙を流し続けたのではないでしょうか。 ◇ 「婦人よ、なぜ泣いているのか」という問いに対してマリアは「わたしの主が取り去られました。」と答えています。「わたしの主」という言葉には、マリアにとっては主イエスがかけがえのない、自分のすべてともいえる存在であることが表されているように思えます。 ◇ マリアは墓を見続けていました。そこに亡くなった主イエスの体があると思って、それだけを探し求めて墓を見つめています。墓というのは、死の世界の象徴です。死の力が支配しているところであり、どんなに大きな権力を持ち、また多くの富を蓄えていたとしても、わたしたちは皆「死」を前にしては無力です。 ◇ マリアが後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えました、しかし、それがイエスだとは分からなかった、とあります。イエス様は「婦人よ、なぜ泣いているのか。」とマリアに話しかけます。マリアはイエス様がわからず、園丁だと思って「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」と言いました。イエス様の遺体を引き取って、わたしがこれからずっと墓を守っていきますと、マリアが墓の中にイエスの亡骸を求め続けているのがわかります。 ◇ 「マリア」という、いつも聞いていた主イエスの声を聞いて、マリアは初めて自分の目の前におられるのが、よみがえられたイエス・キリストであることを知りました。イエス・キリストは今もわたしたち一人一人の名前を呼んでくださいます。その呼びかけにこたえることにより、わたしたちは向きを変えて、主イエスと共に新しく生きる者へと導かれていくのです。 |