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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年11月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2024年11月24日 
「神の内に」加藤豊子牧師
ヨハネの手紙一 2章1−6節



 「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」(1節) 罪を犯さないようになれる人は、この世の中におそらく一人もいないでしょう。神様の前に於いては、わたしたちは日々自分の弱さや罪を示されるのではないでしょうか。



 「…たとえ罪を犯しても。御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1.2節)

 主イエスはわたしたちの弁護者となり、わたしたちが受けるべき罪の罰を代わりに受けてくださったのです。この恵みにより、そして信仰によってわたしたちは救われると、聖書の言葉は約束しています。



 恵みにより信仰によって救われたわたしたちは、罪を犯し続けるような生活をしていいのでしょうか。神を知っていると言いながら、神の掟を守らない者は偽り者で、その人の内に真理はないと、少し厳しい言葉が語られています。



 「しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。」(5節)

 わたしたちは洗礼を受けてキリスト者となり、神様に従って歩もうと思っても自分の罪深さを示され、情けなく思ったりします。それでも、神の言葉を大切に生きて行こうとするならば、わたしたちの内には神の愛が実現し、そしてわたしたちは神の外でおびえて生きる者ではなく、神の支配の中で、どのような厳しい状況にあっても神との交わりが与えられ、イエス・キリストと共に歩むものとされるのです。
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 2024年11月17日 
「神は光」加藤豊子牧師
ヨハネの手紙一 1章5−10節



 早いもので、来週はクリスマスの飾りつけ、そして12月1日からは待降節が始まります。クリスマスは12月25日ですが、もともとは冬至祭として祝われていた日でした。日照時間の少ない冬のヨーロッパにおいては、太陽の光は何よりも待ち望まれていたことでしょう。この日は不滅の太陽が生まれる日として、太陽神ミトラが崇められていたともいいます。一説には太陽の寿命は100億年、その最後は冷え切った小さな星になるとのこと。マラキ書には「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る…」と、義の太陽がイエス・キリストの到来を指し示しています。



 「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(5節)

 ヨハネの手紙が書かれた時代、教会の中に偽の教えというものが入り込んできました。それは、神の子でありながら人となり、十字架に架かられた救い主イエス・キリストを否定するような教えでした。



 イエス・キリストご自身が世を照らすまことの光であり、十字架を通してわたしたちを罪から救い、命を与えてくださるお方なのです。わたしたちは闇の支配から、光の中へと導かれました。闇の中に留まるのではなく、光の中を歩むようにと招かれています。それは、主イエスと一つとされた者として歩むということです。どのような状況の中でも、わたしたちには主イエスとの交わりが与えられています。



 確かにわたしたちが住む世界は罪にあふれ、また自らの内にも闇を見るかもしれません。しかしそのような中で、キリストの光を灯す者となるように、神の愛と真実を証しする者となるように、わたしたちは召されているのです。
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 2024年11月10日 
「命の言」加藤豊子牧師
ヨハネの手紙一 1章1−4節



 ヨハネの手紙一1章を読んでいただきましたが、出しのところがヨハネによる福音書と似ていることに、気づかれた方もおられると思います。ヨハネによる福音書では「初めに言があった。言は神であった。言は神であった。」とあり、「言」はイエス・キリストを表していました。創世記1章1節を思いおこさせる書き出しであり、イエス・キリストが天地創造の初めから、まだ何もない、神様しかおられないそのところから、神と共にあった、と語られていました。



 ヨハネの手紙一に於いても、イエス・キリストは「命の言」という言葉で表されています。そしてその「命の言」はやはり初めからあったものであることが示されています。

 「…わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。」(3節)



 教会の交わりというと、ついわたしたちは人間同士が親睦を深めること、一緒に食事をしたり様々な行事を行うことなどを思い浮かべたりしますが、一番大切な、根本にある教会の交わりとは、父なる神様と御子イエス・キリストとの交わりであることがここに示されています。それは、共に礼拝をささげる…み言葉に聞き、祈り、賛美をささげる、そして共に聖餐に与る、そのことを通して与えられ、深められる交わりだと思います。



 「…わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。」(2節)主イエスの言葉を直接聞き、また目で見て、触れた人々がいました。それらの最初の証人によって伝えられた福音は、2000年の時を経てわたしたちのところにも届けられました。そして福音が語られるところには、今も喜びが満ちあふれるのです。
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 2024年11月3日 
「天の故郷」加藤豊子牧師
ヘブライ人への手紙11章13−16節



 本日は、聖徒の日・召天者記念礼拝として、先に主の御許に召された方々を覚えてこの礼拝をお捧げしています。 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(13節)



 この11章には旧約聖書に出てくる人物…アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ…多くの信仰によって歩んだ人々の名前が紹介されています。わたしたちもこの地上にあっては、信仰の旅を続けているのです。それは、神様がわたしたちのために用意してくださっている、天の故郷を目指して歩み続ける旅であります。



 今年の7月には、教会の最高齢者だった高木兄が99才で天に召されました。長い間教会役員、書記として忠実にご奉仕くださいました。創立25周年記念誌の編集もされ、あとがきを書いておられます。『「遣わされた者」というその名のように、シロアム教会は遣わされた盲人牧師を器として開拓伝道を始め、魂の盲人の救いに心をいたしつつ、25年の歩みを経てきた。その間教会にとっての何回かの試み、また2回の会堂建築に、主にある兄弟姉妹の献身と、聖手により、支え導かれてきたことを、本誌作成にあたり、しみじみ覚えさせられた。われら教会につける者は、その群れは小さく、悩みの黒雲のかかる世にあって、たとえ、光が見えなくても、尚主によりたのみ、歩んでゆかなくてはならない。』



 今から50年ほど前の、記念誌あとがきの言葉です。今尚小さな群れであるシロアム教会ですが、主により頼み信仰の先達たちの歩みを覚えながら歩ませていただきたいと願います。
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