シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2025年4月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
2025年4月27日 |
「罪の赦し」加藤豊子牧師 ルカによる福音書5章17−26節 |
◇ ある日イエス様がお話をされていると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んできた。群衆に阻まれてイエス様の前に置けないので、屋根に上って瓦をはがし、イエス様の前に病人を床ごとつり降ろした。このような出来事が記されています。 ◇ 中風という病は、脳卒中などの後遺症で身体が麻痺して歩けない状態とのことです。またイエス様の時代、病というものは罪の結果である、というように考えられていました。 「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた。」(20節) 「あなたの罪は赦された」というイエス様の言葉を聞いて、怒りを覚えた人たちがいました。その場にいた律法学者、ファリサイ派の人々です。彼らはイエス様が神から遣わされた方、神の子であるということを認めていません。彼らの目にはイエス様の言動が、神を冒涜するものにしか見えなかったのです。 ◇ 「あなたの罪は赦された」と語ってくださった主イエスはその後「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」とあるように、神様の力によってイエス様が一人の病人を癒してくださったことが語られています。けれども、何よりも大切なこととしてここに示されているのは、イエス様がわたしたちを罪から救ってくださるお方であり、ただ一人イエス様だけが「あなたの罪は赦された」と宣言することができるお方である、ということなのです。 |
2025年4月20日 |
「主イエスの招き」加藤豊子牧師 ヨハネによる福音書21章15−19節 |
◇ 先日長野に住む友人から、タラの芽を頂きました。枯れ木、枯れ枝のように見えるその先から、緑の新しい芽が顔を出します。春の訪れを告げる山菜の王様とも呼ばれるそうです。枯れ枝の先の新芽に新しい命、命の力を感じ、また墓の中から、死の力を打ち破ってよみがえられたイエス・キリストの命を思いました。 ◇ 主イエスは復活された後、ガリラヤ湖で再びペトロに会い、三度繰り返して「わたしを愛しているか」と問われました。主イエスの一番弟子として、いつも主の側近くにいたペトロです。十字架が近づいたとき、たとえ牢に入れられ、死ぬようなことがあってもわたしは離れません、と宣言しました。その時の、ペトロの偽らざる思いだったでしょう。しかし主イエスは「鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われ、その通りのことが起こったのです。 ◇ 「わたしを愛しているか」と問われたとき、これが主イエスの十字架の前だったら、ペトロは胸をはって、わたしはこの中の誰よりも、あなたを愛していますと、何の迷いもなく答えたことでしょう。しかしこの時のペトロは、もはやそのように答えることはできませんでした。三度目に問われたとき、ペトロは悲しくなった、とあります。我が身を振り返り、情けない自分自身を思ってのことではないでしょうか。しかしこの挫折を経験したペトロだからこそ、「主よあなたは何もかもご存知です。わたしたがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と弱さも欠けも含め、すべてを知っておられるお方にゆだねるように導かれています。「わたしの羊を飼いなさい」主は新しい使命をペトロにお与えになりました。 ◇ 取返しのつかないことをしてしまった、というような失敗、挫折の経験は、わたしたちにもあるのではないでしょうか。しかしイエス・キリストはそこにも共にいてくださり、また立ち上がる力を与えてくださることを覚え感謝したいと思います。 |
2025年4月13日 |
「出会い」加藤豊子牧師 ルカによる福音書5章1−11節 |
◇ 4月は新たな出会いのときです。今までどんな場面で誰と出会ってきたか…わたしたちの人生は、そうした出会いの積み重ねではないでしょうか。ここは、ガリラヤ湖畔で、主イエスがペトロに出会い、弟子とされたという場面です。 ◇ 主イエスがガリラヤ湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆が押し寄せてきました。イエス様はペトロの舟に乗って岸から少し漕ぎ出すように頼まれ、舟の中からお話をされました。ペトロは漁を終えて、舟から上がり網を繕っていたところでした。しかも何の収穫もなかったという漁の後で、どんなにか疲れていただろうと思いますが、主イエスの頼みに応えて舟を出しました。 ◇ そしてお話が終わると主イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」とペトロに言われたのです。ベテラン漁師の常識では、この昼間に漁をすることは全く意味のないことに思えたでしょう。しかし、イエス様あなたのお言葉ですからと言って、ペトロは言う通りにしました。すると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになったという驚くべき展開になりました。 ◇ ペトロは主イエスの足元にひれ伏して「主よわたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言いました。聖なるものに触れた、聖なるお方に出会った。そのお方の前にただひれ伏して「わたしは罪深い者です」と告白するしかない、そのような主なる神に出会ったときだったのではないでしょうか。 ◇ 「恐れることはない、今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」主イエスは先ず、恐れることはないと言って、ペトロを励まされました。そして人々を救いへと導く、主イエスの弟子となるという、新しい使命を与えられたのです。 |
2025年4月6日 |
「力ある言葉」加藤豊子牧師 ルカによる福音書4章31−37節 |
◇ 「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って…」とあります。ナザレの町から北に40キロ位行ったところ、ガリラヤ湖畔にカファルナウムという町はあります。交通の要所でもあり、大きな町です。イエス様はカファルナウムでも、いつものように安息日には会堂に入り、聖書の朗読とお話をされました。 ◇ 「人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」(32節) ラビと呼ばれる宗教指導者、律法学者たちは非常に熱心に律法を学び、人々に教える役割を担っていました。そうした律法の専門家たちの教えとは違う。イエス様の教えにはその言葉に力、権威があることに人々は気付かされ、驚きました。 ◇ 権威という言葉には、支配する力という意味もあります。わたしたちの周りには様々な組織がありますが、そのトップの座に着いた者が権威を振りかざしまた自分のためにその力を使うならば、多大な被害を周りに及ぼすことになります。イエス様の権威とは、上を目指して努力して手に入れるようなものではありません。イエス様が洗礼を受けられたとき、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天からの声が聞こえました。イエス様の存在そのものに神の子であるという権威があり、その力は神様の御心を行うために与えられたものなのです。 ◇ イエス様は権威と力ある言葉をもって、悪の力に囚われ苦しむ者を解放してくださいました。ここに、捕らわれている人に自由と解放を与えてくださる救い主の姿が示されています。 |