シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2025年5月 | 4日 | 11日 | 18日 | 25日 | 目次に戻る |
2025年5月25日 |
「幸いはどこに」加藤豊子牧師 ルカによる福音書6章20−26節 |
◇ 「幸い」「幸福」という言葉の意味を調べてみると、満ち足りていること、とあります。また、人間は古来、幸福であるための方法に深い関心を寄せてきたともありました。古代ギリシャ哲学者、アリストテレスによれば、幸福とは人生における最高の善であり、それ自体追及されるものです、とあります。 ◇ ルカによる福音書では、主イエスが山から下りて平らな所にお立ちになったとあるので「平地の説教」とも呼ばれています。4つの幸せと、それに応えるようなかたちで4つの不幸について語られています。 「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」 イエス様の目の前にいる人々、弟子たちは、まさに貧しい人々でした。決して経済的に豊かとはいえない、その日の暮らしにも困っている人々も多かったのではないでしょうか。その一人一人に向かって、今あなたは貧しさの中にあるかもしれない、しかし幸いである。なぜなら神の国はあなたのものだから、と主イエスは語られたのです。「幸い」と言われるその理由は「神の国が与えられているから」であります。神様を否定し、背を向けて生きる生き方ではなく、神様は生きておられると信じ、神を仰ぎ祈りながら生きることができる、その幸いが示されています。ここは、単純に世の中の人を貧しい人と富んでいる人に分けて、どちらが幸いかを語っているのではないのです。 ◇ 「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である」その理由は何でしょうか。「あなたがたはもう、慰めを受けている」とあるように、豊かな富を持つことによってもう既に慰めを十分受けており、これ以上はいらないと思っている。この世のもので満足し、神様からの慰めを求めなくなってしまう。それは不幸なことではないかと言われているのです。神の国が与えられていることの幸いを覚えたいと思います。 |
2025年5月18日 |
「安息日の主」加藤豊子牧師 ルカによる福音書6章1−5節 |
◇ ことあるごとに、イエス様とファリサイ派、律法学者たちとの対立が続いています。ファリサイ、という言葉の意味は、分離するというものです。律法を守っているか守っていないか、清いか汚れているか…そうしたことをしっかりと分けようとする姿勢と言えます。彼らは日常生活の中で律法を守ることを重んじ、またそれらを人々に教え指導する立場にありました。 ◇ ここは「安息日論争」と呼ばれる個所です。安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べた。それに対しファリサイ派の人々は、安息日の規定違反であると、イエス様に抗議したわけです。麦の穂を摘んで食べるという行為そのものが批判されたのではありません。そのことが安息日に行われたことが問題とされました。ユダヤには律法とは別にミシュナー、口伝律法と呼ばれる細かな決まり事がありました。安息日にしてはならないリストというものが、200個以上あったといいます。ここでは麦の穂を摘むという行為が収穫、手でもむという行為が脱穀という労働にあたるので、規定違反になるというわけです。 ◇ 主イエスは昔ダビデが、サウル王に命を狙われて逃げていた時、空腹のため、祭司にしか食べることが許されていなかった供え物のパンを食べ、供の者たちにも与えたという出来事を話されました。神から選ばれた王ダビデであるから、その行為が許されたとするなら尚さらのこと、イエス・キリストは安息日の主であり、律法を越えて御心を行われるお方ではないかと、ここに示されています。 ◇ 出エジプト記20章、十戒の中に、神様がわたしたちのために安息日を与えてくださったことが記されています。日常生活の営みを断ち切り、立ち止まって心を神様に向け、主の御声をを聞くものでありたいと願います。 |
2025年5月11日 |
「新しい革袋」加藤豊子牧師 ルカによる福音書5章33−39節 |
◇ 「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(33節) 「断食」というのは、ユダヤの社会で昔から重んじられてきたことです。罪の悔い改めと深く結びついている行為であり、年に一度の大贖罪日には、イスラエルの民全員が一日断食をしたといいます。ファリサイ派の人々は、週に2回断食をしました。彼らの目には、主イエスと弟子たちは昔からの大切な習慣を軽んじているように見えたことでしょう。 ◇ 「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなた方にできようか。」(34節) ここで花婿とはイエス・キリストのことであり。婚礼の客は招かれている弟子たちのことを示しています。婚礼、結婚式は喜びにあふれる時です。そのような場で、断食する人がいるでしょうか。主イエスに招かれている、主イエスが共にいてくださるということは喜びであり、信仰生活とは喜びに満ちたものなのだ。断食に象徴されるように苦行を積み重ねて精進して生きることが信仰生活なのではない。主イエスが共におられるという喜びに生きることが、信仰生活なのだということが示されているのではないでしょうか。 ◇ 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(38節) 新しいぶどう酒は発酵する力が強いので、古い革袋に入れると膨らんで、破れてしまいます。新しい、柔らかい心で主イエスの教えを受け入れ、日々新たにされ主イエスと共にある喜びに生きるよう、招かれています。 |
2025年5月4日 |
「誰のために」加藤豊子牧師 ルカによる福音書5章27−32節 |
◇ 徴税人というのは、ローマに収める税金を集めるのが仕事でした。ユダヤ人でありながら、敵国ローマに雇われてお金を集めているということで、彼らは同胞のユダヤ人たちからは裏切者、と思われていました。それだけではなく、異教徒に仕えること、さらにはこの世の富である金銭を扱うような仕事に就くこと、それらは律法上汚らわしいこと、神の祝福を受けられない罪人として見られました。さらには決められた額よりも多く取り立てて自分の懐に入れていたという所もあり、何重の意味でも汚れた、罪深い存在として見られていました。 ◇ 「イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」とあります。この人が一人座っている姿…それは自分の居場所を見出せないという孤立した、孤独な姿を表しているのではないでしょうか。どんなに裕福で富を蓄えていても、幸せを感じられない。そしてイエス様はそんな彼を「見て」とあります。それはちょっと見てというものではなく、イエス様のその眼差しは、彼の置かれている状況、心の内、その叫びすべてを見通しておられたのだと思います。彼は主イエスの招きに応え、何もかも捨てて立ち上がり、従いました。 ◇ 徴税人や罪人たちと一緒に食事をするイエス様を見て批判するファリサイ派、律法学者たちに対し、主イエスは答えられました。 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31節) 自分たちは健康で正しい、そう思い込んでいるファリサイ派、律法学者たちこそ、実は救いを必要としていることを思わされます。そして長い教会生活の中で、わたしたちもいつの間にか自分を正しいとし、他者を裁く側に立っていないかと問われていることも心に留めたいと思います。 |