シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2025年7月 | 6日 | 13日 | 20日 | 27日 | 目次に戻る |
2025年7月27日 |
「赦しに応えて」加藤豊子牧師 ルカによる福音書7章36−50節 |
◇ ここでは、イエス様がファリサイ派のシモンに食事に招かれています。ファリサイ派というと、いつもイエス様と敵対関係にあるように思われますが、イエス様の話を聞いてみたいと、食事に招く人がいたことがわかります。 ◇ 食事中、突然一人の女性が入ってきました。この町で、罪深い女とされていました。彼女は主イエスの足元に近寄り、涙でその足を濡らし接吻をし、また持ってきた香油を塗りました。イエス様がもし預言者ならば、この女がどんな人かわかるはずだ、罪深い女なのだから、とシモンは心の中で思いました。イエス様はここで、ある金貸しから借金をしていた二人の人のたとえ話をされたのです。一人は500デナリオン、もう一人は50デナリオンを借りていた。二人とも返すお金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてあげた。二人のうちどちらが多く、その金貸しをあいするだろうか、という話です。 ◇ イエス様は500デナリオンの借金を帳消しにしてもらった人と、この罪深い女性を重ねておられるのです。この女性が主イエスに示した一つ一つの行いは、多くの罪を赦されたことへの感謝のしるし、愛のあらわれなのだということです。 ◇ 「正しい者はいない、一人もいない」とあるように、神様の前でわたしたちの罪は、多い少ないで測れるようなものではありません。ここで問われているのはわたしたち自身の罪の意識、自覚であります。ファリサイ派として自分は正しい生き方をしていると自覚しているシモンは、自分は1デナリの借金もない、と思ったかもしれません。 ◇ 主イエスはこの女性に「あなたの罪は赦された。」と言われました。イエス・キリストは、信じる者に罪の赦しの宣言を与え、さらに「安心して行きなさい。」と平安を約束してくださるお方です。 |
2025年7月20日 |
「来るべき方」加藤豊子牧師 ルカによる福音書7章18−30節 |
◇ 洗礼者ヨハネは、イエス・キリストに先立って行き、その道を備える者として誕生しました。「荒れ野に叫ぶ声」として人々に悔い改めを呼びかけて洗礼を授け、またヨハネ本人が、「わたしよりも優れた方が来られる。」と言って、自分の後に来られるイエス・キリストを指し示しました。そのヨハネは、領主ヘロデヤに捕らえられ投獄されてしまったのです。ヨハネの弟子たちは、イエス様について見聞きしたことを、獄中のヨハネに伝えていました。それを聞いたヨハネは二人の弟子をイエス様のところへ送り、こう尋ねました。 ◇ 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(19節) これは、どういうことでしょう。来るべき方というのは、旧約聖書で預言され、ユダヤの人々が待ち望んできたメシア、救い主のことです。約束された来るべき方、メシアはあなたですか、とヨハネは問うているのです。ここに、ヨハネの心が揺れているのを見るのではないでしょうか。自分の弟子たちの報告を聞く以外、何の情報も得られるすべがない。そうした日々が続く中、揺らぐはずもないと思っていたヨハネの心は揺らぎ、来るべき方は、イエス様あなたですよね、とそう確かめている。弟子たちの報告を通して聞く主イエスの姿は、自分が期待していたものとは違う、という思いもあったかもしれません。 ◇ わたしたちの心も、困難な状況が続くとき、期待しているように物事が進まない時、本当に神様はわたしを愛しておられるのだろうか、と揺れるのではないでしょうか。どのような時も、変わることのない聖書の言葉はわたしたちの道しるべであり、支えであります。 |
2025年7月13日 |
「主の憐み」加藤豊子牧師 ルカによる福音書7章11−17節 |
◇ イエス様がナインという町に近づいて行くと、棺が担ぎ出されるところでした。それは、ある母親の一人息子のものでした。なぜ、何歳で亡くなったのかはわかりません。わかっているのは、その母親がやもめであったということ。夫に先立たれ、一人息子と自分が残されて、二人支え合って生きてきたのではないでしょうか。その大切な息子が死んでしまった。何という悲しみ、痛みでしょうか。この親子を知る町の人々も、大勢い側に付き添っていたという様子が目に浮かびます。 ◇ 「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(13節) 「憐れに思い」という言葉は口語訳聖書では「深い同情を寄せられ」とあります。またギリシャ語では、深い感情が宿る所とされる「内臓」を意味し、はらわたが痛むほどの、激しい心の動きを示す言葉です。 死んだ人を生き返らせてくださったという、この主イエスの奇跡の物語は、ただ主イエスは神の子だから、そのような業を行えたのだということを示しているのではありません。やがてイエス・キリストご自身が、死の力を打ち破って復活されるという救いの出来事が、先取りするように示されているのです。 ◇ 亡くなった青年の棺を運ぶ行列が、町の門の外に向かって進んでいきます。この墓に向かう死の行列を、誰も止めることはできません。親しい誰かが死へと向かって行く、その死の行列、死の力に対し、わたしたち人間は無力です。しかし、イエス・キリストだけがその行列の歩みを止め、復活の命に与らせてくださるのです。 |
2025年7月6日 |
「信仰」加藤豊子牧師 ルカによる福音書7章1−10節 |
◇ 百人隊長というのは、文字通り百人の兵士を束ねる立場にあります。この人の部下が病気で死にかかっていました。「百人隊長に重んじられている部下」とあります。部下という言葉はギリシャ語で「ドゥーロス」奴隷、僕です。この百人隊長は、病気の僕を大事に思う、大変情け深い人物だったと思われます。 ◇ 百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエス様に助けを求めました。異邦人である百人隊長とユダヤの長老たちの関係が良好だったのがわかります。ユダヤの長老たちは主イエスに「あの方はそうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言っています。イエス様が近づいて来ると、百人隊長は再びイエス様の元に使いをやって「わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません。」と断るのです。自分は会堂まで建てたのだから、ふさわしい者だというような姿勢は微塵も見られません。その上で「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と願いました。そこには、イエス様への信頼、その言葉の力、権威を信じる姿がありました。 ◇ 「わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」最上級の誉め言葉のような主イエスの言葉です。自分たちこそは、神の言葉を正しく信じる神の民であると誇る人々に対して、これほどの信仰が見られるだろうかという、イエス様からの問いかけのようにも思います。 ◇ この百人隊長の姿から、神の前の謙虚さと神の言葉の力を信じる信仰を教えられるのではないでしょうか。 |