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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2025年7月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2025年7月13日 
「主の憐み」加藤豊子牧師
ルカによる福音書7章11−17節



 イエス様がナインという町に近づいて行くと、棺が担ぎ出されるところでした。それは、ある母親の一人息子のものでした。なぜ、何歳で亡くなったのかはわかりません。わかっているのは、その母親がやもめであったということ。夫に先立たれ、一人息子と自分が残されて、二人支え合って生きてきたのではないでしょうか。その大切な息子が死んでしまった。何という悲しみ、痛みでしょうか。この親子を知る町の人々も、大勢い側に付き添っていたという様子が目に浮かびます。



 「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(13節)

 「憐れに思い」という言葉は口語訳聖書では「深い同情を寄せられ」とあります。またギリシャ語では、深い感情が宿る所とされる「内臓」を意味し、はらわたが痛むほどの、激しい心の動きを示す言葉です。 死んだ人を生き返らせてくださったという、この主イエスの奇跡の物語は、ただ主イエスは神の子だから、そのような業を行えたのだということを示しているのではありません。やがてイエス・キリストご自身が、死の力を打ち破って復活されるという救いの出来事が、先取りするように示されているのです。



 亡くなった青年の棺を運ぶ行列が、町の門の外に向かって進んでいきます。この墓に向かう死の行列を、誰も止めることはできません。親しい誰かが死へと向かって行く、その死の行列、死の力に対し、わたしたち人間は無力です。しかし、イエス・キリストだけがその行列の歩みを止め、復活の命に与らせてくださるのです。
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 2025年7月6日 
「信仰」加藤豊子牧師
ルカによる福音書7章1−10節



 百人隊長というのは、文字通り百人の兵士を束ねる立場にあります。この人の部下が病気で死にかかっていました。「百人隊長に重んじられている部下」とあります。部下という言葉はギリシャ語で「ドゥーロス」奴隷、僕です。この百人隊長は、病気の僕を大事に思う、大変情け深い人物だったと思われます。



 百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、イエス様に助けを求めました。異邦人である百人隊長とユダヤの長老たちの関係が良好だったのがわかります。ユダヤの長老たちは主イエスに「あの方はそうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」と言っています。イエス様が近づいて来ると、百人隊長は再びイエス様の元に使いをやって「わたしはあなたを自分の家にお迎えできるような者ではありません。」と断るのです。自分は会堂まで建てたのだから、ふさわしい者だというような姿勢は微塵も見られません。その上で「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」と願いました。そこには、イエス様への信頼、その言葉の力、権威を信じる姿がありました。



 「わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」最上級の誉め言葉のような主イエスの言葉です。自分たちこそは、神の言葉を正しく信じる神の民であると誇る人々に対して、これほどの信仰が見られるだろうかという、イエス様からの問いかけのようにも思います。



 この百人隊長の姿から、神の前の謙虚さと神の言葉の力を信じる信仰を教えられるのではないでしょうか。
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