シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2025年9月 | 7日 | 14日 | 21日 | 28日 | 目次に戻る |
2025年9月28日 |
「主イエスの招き」加藤豊子牧師 ルカによる福音書9章21−27節 |
◇ 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主イエスの問いに対し、ペトロは「神からのメシアです。」と答えました。そのすぐ後で、主イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じた、とあります。なぜ、主イエスが神から遣わされたメシア、救い主であることが、隠されなければならなかったのでしょう。当時の人々が期待するメシア像…それは、人々をローマの支配から解放してくれる、力強い社会的指導者でもありました。ペトロを含め多くの人々は、メシアが、どのようなお方なのかを誰一人理解していなかったわけです。 ◇ 弟子たちを戒められた後、主イエスはこう言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(22節)ここに、神から遣わされたメシアの真の姿が、主イエスご自身の言葉で語られています。 ◇ 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(23節) 自分を捨てる、ということは、自分の古い生き方、神に背を向けて生きてきた、自分勝手な生き方を捨てる、ということではないでしょうか。自分の都合、利益を先ず第一に優先する…それが、わたしたちのかつての生き方でした。ここでは、日々、自分の十字架を背負うということが求められています。何か、特別な大きな犠牲を払うことが求められているわけではありません。主イエスがそのご生涯、十字架を通してわたしたちへの愛を表してくださったように、日々、毎日の生活の中で、わたしたちも愛故の重荷を負う者となるようにと招かれています。 |
2025年9月21日 |
「主イエスからの問い」加藤豊子牧師 ルカによる福音書9章18−20節 |
◇ 主イエスはここで弟子たちに、「群衆はわたしのことを何者だと言っているか」と問われ、さらに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問うておられます。イエス様は一体何者なのか…この問いは、弟子たち自身が抱いていたものでした。ガリラヤ湖上で、主イエスが嵐を静められるという出来事がありました。そのとき、弟子たちは「いったいこの方はどなただろう」と言っています。その疑問は、主イエスの側にいる多くの人々が抱いていた共通の疑問だったと思います。そして洗礼者ヨハネ、あるいはエリヤではないか、誰か昔の預言者が生き返ったのではないか、と思われていたわけです。 ◇ 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに対し、ペトロは「神からのメシアです。」と答えました。口語訳聖書では「「神のキリストです。」とあります。メシアには、油注がれた者という意味があります。旧約の時代、そしてイエス様の時代の人々も皆、メシア、油注がれた神から選ばれた王、救い主を待ち望んでいました。。わたしたちはイエス様のことを「イエス・キリスト」と呼びます。これは、イエスという名前のこの方は、キリスト、メシア、救い主であるということを意味しているわけです。 ◇ 讃美歌121番を賛美しました。「この人を見よ」この言葉は、鞭打たれ、傷ついた主イエスを人々の前に引き出して、ピラトが言った言葉です。ピラトには、主イエスには何の罪も認められないことが分かっていました。しかし群衆は、「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫び、主イエスは十字架に架かられました。讃美歌の言葉にあるように、主イエスの生涯を通して表されていたのは、真の愛でありました。 ここにこそ真の、本物の愛が示されており、その愛に生かされていることを覚え、主イエスにつながって歩ませていただきたいと願います。 |
2025年9月14日 |
「パン五つ魚二匹」加藤豊子牧師 ルカによる福音書9章10−17節 |
◇ 「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。」(10節) 遣わされた12人の弟子たちが帰って来て、主イエスにその旅の報告をしました。イエス様の力によって驚くべき体験をし、興奮冷めやらぬという思いだったことでしょう。主イエスはそんな弟子たちを連れて、人里離れたところへ退かれました。静まって祈り黙想する時を持とうとされたわけです。ところがそこへ、また群衆が押し寄せてきました。今は静かに休みたいからと、追い返してもよさそうですが、主イエスは休む間もなく人々の求めにお応えになりまいた。 ◇ 日が暮れてきて弟子たちは心配になりました。このままでは皆、家に帰れなくなる、食べ物もない。弟子たちの方から主イエスに「群衆を解散させてください。」と言うと、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われました。男だけで5千人ほどいたという状況で、無理な話です。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」と答える弟子たちに対し、主イエスは天を仰いで祈り、パンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちはそれを群衆に配りました。するとすべての人が満腹したという、驚くべきことが起こりました。 ◇ とても常識では受け止められない出来事ですが、四福音書すべてにこのお話は記されていいます。パンが裂かれ、人々に配られ満たされた出来事には、救い主イエス・キリストの姿と共に、聖餐式が示されていると言えるでしょう。 ◇ また、パン五つと魚二匹というわずかな物が祝福され、用いられました。「ありません、できません」わたしたちはそう言うことが多いかもしれません。人間の限界をはるかに越えて、祝福し満たしてくださる神に目を向けたいと願います。 |
2025年9月7日 |
「遣わされて」加藤豊子牧師 ルカによる福音書9章1−6節 |
◇ イエス様は12人の弟子たちを呼び集めて、宣教のために遣わされました。「呼び集め」という言葉には、「召す」という意味もあります。今までは主イエスの側近くにいて、その働きを見てきた弟子たちですが、ここで新たに弟子たちだけで、遣わされることになったわけです。 ◇ 弟子たちが神の国の宣教のために主イエスから授けられた力、こうした力は、弟子たちに備えられていたものではありません。そして遣わされるにあたって最も大切なことは何なのか。それは「何も持たないということ」であることが示されています。 「…遣わすにあたり次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない。」(2.3節) 何も持たない、ということは、神様のみを頼りに、信頼してゆだねて行くようにということが求められているわけです。自分の持っているもの、身に着けているもので、この働きを担うことはできないということが示されています。 ◇ 12人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら福音を告げ知らせました。遣わされた先で激しく拒絶されるということもあったでしょう。その時は神様にゆだねて、その所を離れ去るようにということも語られています。使徒言行録で使徒たちが、迫害を受けながらも行く先々で福音を伝え続けた姿と重なります。 ◇ 信仰を与えられ教会で礼拝をささげている一人一人は、礼拝する群れとして召し集められていることを覚え、またここから遣わされていきたいと願います。 |