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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2025年10月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2025年10月19日 
「イエスに従う」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章57−62節



 「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(51節)

 主イエスは「必ず苦しみを受け、排斥され殺され…」とご自分で予告された十字架という受難の出来事がいよいよ近付いたことを自覚され、エルサレムに向かう決意を固められたという、新しい場面を迎えています。



 エルサレムへ向かう途中、サマリアの村で、イエス様たちは歓迎されず、拒否されました。弟子のヤコブとヨハネは、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と過激な言葉を言っています。それに対し主イエスは振り向いて、二人をいさめられました。敵意に対して敵意で返すことを、戒められたのです。主イエスはエルサレムへ、十字架へと向かっておられました。それは、ユダヤ人だけではなく、サマリア、また世界中すべての人々を救うためであるという救い主の姿がここに示されています。



 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58節)

 「どこへでも従って参ります」と答えた人に、主イエスが言われた言葉です。「弟子の覚悟」と小見出しがつけられていますが、これはイエス様ご自身の覚悟でもあります。さらに厳しい言葉が続きますが、これは上から押し付けられるように従うことが求められているのではないと思います。ここで問われていることは、わたしたちは何を一番大切なものとして生きているか、ということではないでしょうか。



 「先ず…」と自分の思い、考えを優先させてしまう、神よりも自分の判断を上に置いている姿勢が問われているように思います。わたしたちは日々、何を優先したら良いのか、様々な選択、判断をする場面に直面します。すべては神の御手の中にあることを覚えながら、祈りつつ御心を求めて歩む者でありたいと願います。
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 2025年10月12日 
「誰が偉いのか」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章43−48節



 「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」(46節)

 誰が一番偉いのか…そのような議論をする弟子たちの姿は、少し大人げないようにも思われます。しかしそのような思い、心の動きというものは、口には出さなくても、誰もが内に持っているのではないでしょうか。



 この議論の前に、主イエスは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」とご自分の死について再度予告されました。弟子たちには、その言葉が分からなかった、とあります。いよいよ十字架へと向かわれる、大切な時に直面しているイエス様と、誰が一番偉いのかということで頭がいっぱいになっている弟子たち。そこには、大きなずれが生じているこを思わされます。



 「偉い」という言葉は「より大きい」というい意味です。より大きい者として評価されることを求めている弟子たちに対し、主イエスは一人の子供を自分の側に立たせて言われました。

 「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(48節)



 ユダヤの社会では、律法を守れない子供は、価値を認めてもらえない、小さな存在でした。弟子たちは、自分たちがより大きくなることを願い、また自分たちの師である主イエスに対しても、より偉く、より大きなメシアであることを期待し求めていたと思います。しかし、主イエスが示されたのは、この世の中で価値のない、小さなものとして扱われていた子供だったのです。

 「あなたがたの中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(48節)
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 2025年10月5日 
「イエスの姿」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章28−36節



 「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。」(28節)

 「人の子は必ず苦しみを受け…」と苦しみを受けられるメシアの話をされた後、主イエスはペトロたち3人の弟子と一緒に山に登られました。すると、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。」と驚くべきことが起こりました。「栄光に輝くイエス」とありますが、これはご自身の内から輝き出す栄光、神の子としての輝きをあらわしています。主イエスの地上での生涯…それは自分を低くして人となられた姿でした。その中でこの場面は、神の子としての本来の輝きが表された、山上の変貌と呼ばれる出来事です。



 モーセ、エリヤは旧約聖書を代表する人物です。主イエスとこの二人とで話されていたこと、それは、イエスがエルサレムで遂げようとされておられる最期についてでした。最期という言葉はギリシャ語ではエクソダスです。脱出という意味があり、出エジプト記のことをエクソダスと言います。それは、奴隷からの解放の物語であり、主イエスを通してわたしたちが罪の力から解放される、救いの物語を指し示すものであります。主イエスの最期は決して終わりではなく、旧約の時代からの神のご計画の実現だったのです。



 「祈るために山に登られた」(28節)とあります。主イエスの祈りの姿は、福音書のあちらこちらで見られます。心を注ぎ出して一人祈られたその祈りは、神様との確かな信頼に基づく、真実な交わりのときでした。そして「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」という神の言葉が与えられたのです。
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