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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2025年11月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2025年11月23日 
「祈るときには」加藤豊子牧師
ルカによる福音書11章1−4節



 弟子たちは「わたしたちにも祈りを教えてください。」と主イエスに願いました。弟子たちは子どもの頃から親に祈りの言葉を教えられ、祈ることは習慣になっていたはずです。福音書には、「祈るために山に行き…」「一人で祈っておられたとき…」と、しばしば主イエスの祈りの姿が記されています。間近でその祈りの姿を見ることを通して弟子たちは、自分たちの祈りとは違う、今まで知らなかった祈りがあることに気づかされたのではないでしょうか。



 主イエスが教えてくださった祈り、主の祈りは「父よ」という呼びかけで始まります。なぜわたしたちは、神様のことを「父よ」と呼ぶことができるのでしょうか。それは、主イエスが先ず「父よ」と神様を呼んでいるからに他なりません。マルコによる福音書14章には「アッパ父よ」という呼びかけの言葉があります。「アッパ」とは、まだ言葉を自由に話すことができない幼子が使う言葉です。イエス様と神様との関係がどれほど近く、密接なものであり、また揺るがない信頼関係がそこにあることが示されています。わたしたちも神様を「父よ」と呼ぶことができ、神様との深い交わりへと招かれているのです。



 「御名が崇められますように。」これは、神様の御名が聖なるものとされますように、という祈りです。わたしたちのこの世界は、多くの人が神を忘れ、神に背を向け自分中心な生き方をしています。そのような現実があったとしても、神が神として崇められますように、と願う祈りです。



 次週より、アドベントが始まります。クリスマスを待ちのぞみつつ、救い主をこの世に与えてくださった神様の御名が崇められますように、御国がきますように、と祈り待ち望む者でありたいと願います。
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 2025年11月16日 
「良い方を選ぶ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書10章38−42節



 先週の「よきサマリア人」の話に続いて「マルタとマリア」という話も、良く知られている有名な話です。マルタはイエス様を迎えて接待のために、忙しく立ち働いています。妹のマリアが主イエスの足もとでお話に聞き入っているのをみると、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と不満をぶつけます。すると主イエスは、「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言われたのです。



 ここでイエス様は、マルタが忙しく働いているそのことを批判しているのではありません。イエス様が問題とされたのは、マルタが多くのことに思い悩み、心を乱していることにありました。「思い悩む」という言葉は、元々は分裂させるという言葉から生まれています。接待のためにやらなければならない沢山のことを抱え、それに加えてマリアが手伝いもしないで主イエスの話を聞いていることに対するいら立ち、さらにそのマリアを叱ることもせず、そのままにしているイエス様への不満、それらが重なって、マルタはまさに心を乱していたわけです。



 主イエスは「必要なことはだた一つだけである。」と言われました。口語訳聖書では「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」とあります。その大切なものは、マリアの姿、主イエスの足もとでみ言葉に聞き入っている姿の中に見ることができます。その姿は弟子の姿であると言われます。わたしたちにとって、み言葉に聞くということが、一番必要な、無くてならぬものになっているのか、どのようにみ言葉と出会っているかが、問われているのではないでしょうか。
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 2025年11月9日 
「隣人とは」加藤豊子牧師
ルカによる福音書10章25−37節



 大変有名な、良きサマリヤ人のたとえ、と呼ばれるお話です。追はぎに襲われて、一人の人が傷を負って倒れていた。そこに祭司、レビ人が通りかかり、二人ともその人を見ると、道の向こう側を通って行ってしまった。旅をしていたあるサマリア人は、その人を見ると憐れに思い、近寄って傷の手当をし、さらに宿屋に連れて行って介抱した。さらに翌日には宿屋の主人に銀貨2枚を渡して、この人を介抱してください、費用がもっとかかったら帰りに払います、と言って去っていった。そしてイエス様は問われるのです。この3人の中で、誰が襲われた人の隣人になったのか。そして、行って、あなたも同じようにしなさい、と。



 ある律法の専門家が主イエスを試そうとして、質問をしたことからこのお話は始まります。「では、わたしの隣人とは誰ですか」という質問に答えて主イエスは話されたのです。ユダヤ人が日頃軽蔑し、犬猿の仲であり、隣人とは思っていないサマリア人が、傷ついたユダヤ人を助けたのです。人に対して線引き、区別をするような姿勢に対して、主イエスはあえてサマリア人を登場させたのです。誰が襲われた人の隣人になったと思うか、と問われ、「その人を助けた人です。」と答えました。律法の専門家の心に刺さる答えだったのではないでしょうか。



 わたしたちも、日々の人との出会いの中で、誰かの隣人になっているか、と問われているように思います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われる主イエスの言葉はわたしたちの心に重く響きます。人を愛すること、赦すこと…自分の力では難しいものです。しかし、イエス・キリストは、罪深いわたしたちを赦し、主イエスと共に愛と赦しの道を歩むように招いてくださるのです。
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 2025年11月2日 
「信仰の完成者イエス」加藤豊子牧師
ヘブライ人への手紙12章1−6節



 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(1節) 「こういうわけで」という言葉から始まります。前の章11章の内容を受けて語られているところです。11章には、信仰によって生きた旧約聖書の登場人物が多数紹介されています。



 「信仰」…それは、わたしたち人間の内側から生まれるものではありません。努力して、修行を積み重ねて得られるものでもありません。それは上から、神様から与えられるのです。アブラハム、モーセ、ダビデ…名を連ねているこれらの人々は、決して立派な、信仰の強い人ではありません。それぞれが試練、誘惑に遭い、迷い、失敗も重ね、それでも信仰の歩みを守られて生きた人々です。



 「罪」とは絡みつくものである、とあります。絡みつくとは、長いコートを着ているかのように、わたしたちの歩みを妨げるものであるとの説明もあります。ここではわたしたちの信仰の歩みが、マラソンという競技に譬えられているのです。速さを競うこと、速く走ることが求められていません。忍耐強く、自分に定められている道を走り抜くことが求められています。



 2節に「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら…」とあります。ここに、この信仰のマラソンを走り抜く秘訣があります。絡みつく罪や重荷ばかりを見つめていると、わたしたちはまた失敗してしまった、自分はだめだと落ち込むばかりかもしれません。しかし、信仰の完成者であるイエスが、愛をもって一人一人を導いてくださることが約束されているのです。
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